福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年4月21日(日)礼拝メッセージ

「仕えられたイエスに学ぶ」

葛西説教20240421

 

1.テキスト「ルカ2:4152

2.タイトル「仕えられたイエスに学ぶ」

3.中心聖句「ローマ14:18

「キリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです」

4.本文「仕えられたイエスに学ぶ」

)「本日のテキストの強調点」

本日のテキストの強調点は、イエスがキリストだということです。ルカは、イエスの公生涯が始まるかなり前から、イエスが父なる神とのユニークな関係を意識しておられたことを記しています。すでに12歳の時、イエスは自らが神の子であり、特別な使命、召命に生きることに定められていることを知っておられました。イエスはヨセフとマリヤに従順であり律法を大切にしましたが、両親以上に父なる神との聖なる関係にも生きておられたのでした。

そして、私たちもイエスのように、肉体的、精神的、社会的、霊性の領域のそれぞれにおいて、バランスよく十分に発達することの大切さを学びましょう。

 

本論)「仕えられたイエスに学ぶ」

.「年齢の自覚」

 ユダヤの成人男子は、毎年、三大祭りに参加することが義務付けられていました(申命記16:16)。「あなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。」と定められています。女性はそうではありませんでした。しかし(41)「イエスの両親は、過越の祭りには毎年エルサレムに」行っていました。イエスが12歳になられた年、両親は(42)「慣習に従って」イエスとその祭りに行きました。それは13歳のときの、「バル・ミツバ(契約の子)」になる儀式を受けて成人と認められるため、その予習をさせるのが慣例だったからです。神の子であるイエスは生まれた時から「契約の子」でした。しかしイエスは、ここでも普通の人間の男子と同じ道を歩まれ、両親に従ってエルサレムに行かれたのでした。

 12から13歳というと、現在では小学校から中学校に進む頃で、自分の自由意思で物事の決断ができるし、したい年ごろでしょう。人によって多少の差があるでしょうが、クリスチャン・ホームの子どもたちが信仰の決心をすることも多いのではないでしょうか。若い時に、イエスを信じるなら、その後の生涯はどれほど祝福に満ちたものとなるでしょうか。この年齢の子どもたちには、この救いの自覚の大切さを伝えたいものですね(伝道者の書12:1)

『あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない」と言う年月が近づく前に』と聖書も教えています。

 

.「使命の自覚」

 少年イエスは、この祭りで、いけにえの小羊がほふられるのを目撃し、しかもそれが毎年繰り返されていることを知りました。そして動物のいけにえは本当の罪の赦しをもたらすものではないことを悟っておられたことでしょう。もしそれができたとするならば、(ヘブル10:2)「もしそれができたのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、したがって、ささげ物をすることは、やんだはず」だと考えられたと思います。当然、神の子であられるので、それらすべてをすでにご存じであったと言えるでしょう。少年イエスの教師たちへの質問も、このようなことについてではなかったでしょうか。

 イエスを捜しあてたマリヤが、(48)「父上(直訳『あなたの父』)も私も、心配して」と言われたとき、イエスは、(49)「わたしが必ず自分の父(直訳『わたしの父』)の家にいることを、ご存じなかったのですか」と答えらたことは注目に値します。イエスはこの時点ですでに、神殿が自分の父の家であることを自覚されていました。そして将来、自分が(ヘブル10:12)「罪のために一つの永遠のいけにえをささげ」る使命もお持ちだったことでしょう。すなわち、ここに主なるイエスの神性、神の性質が表されています。

 

.「責任の自覚」

 しかしイエスは、すぐにその使命を実行されたのではありませんでした。そうではなく(51)「いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられ」ました。たとえ(51)「両親には、イエスの話されたことばの意味がわからなかった」としても、彼らを敬い、そから約20年間、両親を助けて一緒に生活されました。ここに、人としての責任を自覚し、それを立派に果たされたイエスの姿を見ることができます。

 イエスがイスラエル全土を旅し、神の国の宣教のために働かれたのは、わずか3年余りでした。しかし、ナザレにて両親に仕えられたのはその十倍ほどであったことを私たちは忘れてはなりません。神の子であるお方さえ、人の子として謙遜に両親に仕えられました。そうであるなら、私たちはもっともっと謙遜に両親に仕え、社会で生きるべきなのです(ローマ13:7)「あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい」と勧められています。そうであるなら、(ローマ14:18)「このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、また人々にも認められるのです」と教えられているとおりですね。

 

勧め「仕えられたイエスに学ぶ」

52)「イエスはますます知恵が進み(知識教育)、背たけも大きくなり(体育教育)、神と人とに愛され(霊性教育)」ました。しかし、今の日本では「知識」と「体育」に多くの情熱が注がれ、様々な塾やスポーツ・クラブがありますが、人の魂に必要な「霊性」ついては、ほとんど関心が払われていません。神と人から愛される道は、聖書にはっきりと記されていることを私たちは心に刻むべきです。とくに、子どもの「霊性」の教育、そのための家庭と教会の責任は大きいのです。そういう意味でも家庭礼拝は大切ですね。

 

そして、私たちもイエスのように、肉体的、精神的、社会的、霊性の領域のそれぞれにおいて、バランスよく十分に発達することの大切さを学びましょう。