福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年3月31日(日)礼拝メッセージ

「復活された主」

葛西説教20240331

 

1.テキスト「ヨハネ2018節から29節」

2.タイトル「復活された主」

3.中心聖句「ヨハネ2029節」

 「見ずに信じる者は幸いです。」

4.本文「復活された主」

 序)「信仰とは何か?」

 先週、お話ししたように、イエスは、十字架で私たちの罪の贖いのために一切を成し遂げてくださいました。それ故、私たちは、成し遂げられたみわざに安息し、ただ信仰によって救われるのです。

 中心聖句(29)「見ずに信じる者は幸いです」は、信仰とは何かを、明確に示しています。イエスは、私たちを、「見たので信じる信仰」から、更に「見ないで信じる信仰」へと導いてくださいます。

 しかも、信仰の最後の決断には、「見ないで一歩を踏み出す」という信仰の一側面が伴います。私たちが人々に信仰への招きをする時、私たちの側でも、働いてくださる主イエスへの信仰を持ちたいものです。

 

本論)「復活された主」

Ⅰ「不信仰な弟子たち」

 イエスは、十字架と復活のことを、何度も弟子たちに予告されていました。しかし十字架刑が行われた時でも、彼らは誰一人、本気でイエスの復活を信じていませんでした。しかも18節では、マグダラのマリヤが、イエスとお会いしたことは彼らに伝えられていたにもかかわらず、かえって彼らは、自分たちも捕らえられるのではないかと恐れていたのです。それほど復活は、彼らの想像もつかない出来事でした。それは現代の多くの人々が、「キリスト教は、復活など非科学的なことを言うから、信じられない」と批判するのも、無理からぬことではないでしょうか。

 しかし復活がないなら、人間は死の不安から解放されることはできません。弟子たちが恐れていたのは、単に逮捕されることだけではありません。その後に殺されることが予想されていたからでした。

 

Ⅱ「主が与えられる平安」

 その日の夕方のことでした。突然にイエスが、厳重に戸締りされていた部屋に入って来られました。彼らはどれほど驚いたことでしょう。ルカは「彼らは驚き恐れて」(ルカ24:37)と記しています。その不信仰な彼らにイエスは「平安があなたがたにあるように」と言われました。

 十字架にかかられる前夜、イエスは弟子たちに(14:27)「わたしの平安を与えます」と約束されました。しかし彼らはその約束を信じていませんでした。その不信仰な弟子たちに、イエスは傷のあるご自分の手とわきをお見せになられ、ご自分がどこにでも存在されることを示されました。(マタイ8:20)「ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいる」という約束は、罪の赦しという流れの中で語られていることを忘れてはなりません。イエスは不信仰な彼らに現れ、「神と和らぐ平安」を与えられました。

 このことと比較して、神学者バックストンは21節のイエスが与えられた平安を、「働きの中に得る平安」と教えます。弟子たちが世に遣わされるときに与えられるものです。この世では反対があり、迫害があります。しかし聖霊を受けるなら、弟子たちはその中でも平安をもつことができるのです。また罪を赦す権威さえも与えられるのです。

 

Ⅲ「トマスでさえ」

 しかし、トマスだけはその時、この場にいませんでした。他の弟子たちがマリヤの証言を信じなかったのと同様に、トマスも弟子たちの証言を信じようとはしませんでした。彼はさらに明確に、(15)「釘の跡を見、・・・また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と宣言したのでした。ヨハネは11:1614:5でトマスのことばを記していますが、どちらの場合にも消極的で悲観的な彼の性格が表れています。

(ヨハネ11:16)「主といっしょに死のうではないか。」

(ヨハネ14:5)「私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」

 それからの一週間、トマスは不安な日々を送っていたことでしょう。「私はあのようにみんなに言ったものの、ペテロもヨハネも、今までとは違う感じがする。イエスの復活は本当なのかも?それを信じられない私は、不信仰なダメな弟子なのかもしれない?」。

 弟子たちも、そんな不信仰なトマスを追い出しはしませんでした。おそらく自分たちも信じられない時があったからではないかと思います。そして次の日曜日、イエスは再び弟子たちのいた家に現れ、トマスの前に立たれました。その時もイエスが、(26)「平安があなたがたにあるように」と言われたことに注目しましょう。イエスはトマスの不安な気持ちを知っておられました。そして彼をお叱りにならないばかりか、彼が信じられるようにと手とわきを示されました。それだけで十分でした。彼は(28)「私の主。私の神。」と、イエスこそ私の主です。私を救う神ですと告白しました。

 

勧め)「復活された主」

 現在、私たちは主であるイエスを見ることはできません。だから復活を信じることは容易ではありません。しかし、これまで二千年間、見ずに信じた人々は存在し続けました。彼らは恥を恐れず、死をも恐れず、主であるイエスの復活を宣べ伝えてきたのです。

ですから、中心聖句「見ずに信じる者は幸いです」は、信仰とは何かを、明確に示しています。イエスは、必ず私たちを、「見たので信じる信仰」から、更に「見ないで信じる信仰」へと導いてくださいます。信仰の最後の決断には、「見ないで一歩を踏み出す」という信仰の一側面が伴うものだからです。

それであるので私たちが人々に信仰への招きをする時、私たちの側でも、働いてくださる主イエスへの信仰を持ちましょう。

 

 そうするならば、2024年度の私たちの信仰生活と教会生活は、必ず神の栄光輝くものとさせていただけることでしょう。