福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

葛西説教20230212

1.テキスト「ルカ18:35-43

2.タイトル「見えるようになる」

3.中心聖句「ルカ18:41

「主よ。目が見えるようになることです」

4.本文「見えるようになる」

 序)「見えるようになるとは」

 イエス様は私たちに従うことを求めておられます。しかし、そのために必要な信仰はどのようにして生まれるのでしょうか。本日のテキストからそのことが学べるのです。なぜならその信仰とは、何よりも「見えるようになる」ことだからです。もし、私たちが主を見ることができるならば、おのずから主に従って行かずにはおられなくなるからです。目の不自由な人は「目が見えるようになり・・・イエスについて行った」(43)。ザアカイもまた、「イエスがどんな方か見ようとした」(19:3)。そしてこの「失われた人」は「捜し」出され、「救」われたのです(19:10)。

 私たちの2023年度の教会のみことばは「義人の道は平らです。あなたは義人の道筋をならして平らにされます。」です。この主が「平らにされ」る道も、やはり主に「見えるように」(42)させていただかなければならないと考えています。そのためには本日のテキストの目の見えない人のように、主の前に自らの心の目の見えないことを素直に認め、主に見えるようにさせていただくことを求めつつ歩む一年とさせていただこうではないでしょうか。

 

本論)「見えるようになる」

.「エリコの町はずれ」

 エルサレム近くにエリコという大きな町がありました。その町はずれに、目が見えない人が住んでいました。彼は、毎日、仕事もなく、人が歩くとすぐにホコリが立つような道端に座って、物乞いをしながら暮らしていました。それはとても、つらく苦しい毎日でした。

 その日も、彼はいつものように、道端に出て、通り行く人々に、わずかの施しを求めて座っていました。すると、たくさんの人が一団になって通りかかります。「あれ、いったい何があるのだろう」と、そう思った彼は、そばにいた人に尋ねました。すると、「ナザレのイエス様がお通りなのだよ」と教えました。そのころ、イエス様は多くの場所で病人を癒したり、悪霊を追い出したり、歩けない人を歩けるようにしていました。そこで、目が見えない彼は、じっとしていることができなくなったのです。 

 

.「叫び、求め続け」

 彼はすぐに立ち上がり、ありったけの声を振り絞りだしました。「ダビデの子、イエス様、私をあわれんでください!」と。「ダビデの子イエス様」とは、分かりやすく言えば、「救い主イエス様」という意味です。彼はイエス様こそ救い主であり、自分の目もきっと治してくださると信じていました。

 しかし、まわりの人々は彼を叱りつけました。「うるさい、黙れ」と。そのようにイエス様の周囲にいた人々も彼を黙らせようとしました。

 ところが、彼は、やめるどころか、ますます激しく叫び続けました。「ダビデの子イエス様、私をあわれんでください!」と。彼は、イエス様から恵みをいただくのは、このチャンスしかないと考えていたのでしょう。彼は、まわりの人たちから何と言われても決してあきらめないで、イエス様に叫び、求め続けました。

 

.「信仰による救い」

 この彼の叫びは、イエス様の耳にも入りました。イエス様は、すぐに、彼をそばに連れて来るようにとお命じになりました。彼は、喜びのあまり飛び上がるようにして、イエス様のもとに走り寄ったことでしょう。

 大喜びの彼にイエス様は「私に何をしてほしいのか」とお尋ねになりました。彼はすかさず答えました。「主よ、見えるようになることです」と。彼は、イエス様にしていただきたいことをはっきりと言い表しました。

 すると、イエス様は「見えるようになりなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです」と言われ、彼の信仰に応えられました。

 すると、そのときまで全く見えなかった目が開かれ、見えるようになりました。それだけではなく、彼は、イエス様に従う人につくり変えられたのです。彼が信仰を持ってイエス様に求め続けたので、イエス様はその信仰を喜ばれ、その御力を現わされたのです。

 

勧め)「見えるようになる」

 イエス様は、私たちの目も開いてくださるお方です。私たちは、肉体の目は開いているかもしれませんが、罪を持ったままでは、心の目が閉ざされているのです。

 イエス様は、私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださいました。私たちが罪を悔い改め、イエス様の十字架を信じるなら、どんな罪でもゆるされ、私たちの心の目が開かれるのです

 私たちの心の目は開かれているでしょうか。私たちは見えないことを素直に認め、「主よ、私の心の目を開いてください」と、イエス様のもとに行き、つくり変えていただきましょう。

 

 また、そうするなら、私たちの2023年度の教会の歩む、主が平らにしてくださる道もはっきりと見えるようになることでしょう。