福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

葛西説教20230205

1.テキスト「ルカ15:11-24

2.タイトル「父の愛」

3.中心聖句「ルカ15:24

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」

4.本文「父の愛」

序)「イザヤが語る神の愛」

 2023年度のみことば義人の道は平らです。」(イザヤ26:7)。この神のことばはイザヤ書24章から27章の中心聖句と呼んでもよいと私は考えています。神学者はこの24章から27章に「世界の裁きと、終わりの日の救い」という見出しをつけます。この個所では、世界のさばきの真っただ中で、イザヤが突然、感謝と勝利の歌を歌い。そしてさばきがどれほど徹底的であっても、それは神の全知全能のはかりごとの一部であり、最後の日に、残された民にとっては、感謝と勝利の原因になると言います。

では、どうすれば私たちも、イザヤと共に「感謝と勝利の歌」を歌えるのでしょうか。

 イザヤは「私のたましいは、夜あなたを慕います。まことに、私の内なる霊はあなたを切に求めます。あなたのさばきが地に行われるとき、世界の住民は義を学んだからです。」(イザヤ26:9)と記します。イザヤは「義人」とは、自分自身が正しい人ではなく、どのような状態でも神を慕い求める人だと教えます。すなわち、さばきの中でも、神を慕い求めるキリストにある義人、神の愛を信じる信仰者は「感謝と勝利の歌」を歌うことができるのです。

 ですから、本日のタイトルは「父の愛」です。このテキストでは、弟は父に帰るときに実は「死んでいた」のであり(2432)、父自らが出て来ることが必要でした。また、兄も例外ではなく(28)、兄もまた死せる者であり、父の愛が必要でした。ですから神学者は、このたとえを「放蕩息子のたとえ話」と呼ぶのも、「二人兄弟のたとえ話」と呼ぶのも正しくはなく、「二人の子を持つ父の愛のたとえ話」でなければならないと言う。

 

本論)「父の愛」

.「弟息子の計画」

 ある人に二人の息子がいました。上の息子は、お父さんのもとでまじめに働いていましたが、下の息子は、こんな田舎で一生を過ごすよりも、町へ出て一旗揚げたいと思っていました。

 ある時、弟の方がお父さんの所にやってきてこう言いました。「お父さん、あなたの財産の私がいただく分をください。」と。それはお父さんが亡くなってから渡すべきものでしたが、あまりしつこくねだるので、お父さんは、二人の息子に財産を分けてあげました。

 弟は、お金を手にするとすぐに家を出て町へ行きました。財産を元手に商売をしてお金をもうけようと計画していたのです。ところが、にぎやかな街には誘惑がたくさんあります。彼は、悪い友達ができて、ごちそうに遊びにとお金を使うようになりました。そしてたくさんあったお金は、たちまちになくなってしまいました。

 

.「本心に立ち返って」

 ちょうどそのころ、ひどいききんが起こり、彼は食べることにも困り始めました。友達も、お金のない彼には冷たく、だれも助けてくれません。

 やっとあるお金持ちにお願いして、豚の世話係として置いてもらうことができました。しかし、あまりにもお腹がすくので、豚の餌でもいいから分けてほしいと思うほどでした。

 そのとき、彼は気づきました。「お父さんの家には、たくさんの使用人がいて、その人たちでさえ、ちゃんとした食事をして満足しているのに、息子である私は、こんな所で飢えて死のうとしている。どこで間違ったのだろう。そうだ、私がこんなところにいるのはお父さんのもとを離れたからだ。」

 彼は本心に立ち返りました。そして、決心したのです。「今からでも遅くはない。お父さんのところに帰ろう。そして素直にあやまって、『もう息子の資格はありませんから、使用人の一人として家に置いてください。』と言おう。」彼は、すぐに立ち上がりました。

 

.「喜んで迎える父」

 一方、お父さんのほうは、息子が家を出てから、毎日のように、息子の帰ってくるのを待っていました。息子が楽しくお金を使って遊んでいた時、おそらくお父さんのことはまったく頭になかったでしょう。でも、お父さんは違いました。息子のことを片時も忘れることなく、「今日は帰ってくるだろうか」とずっと待っていたのです。

 ある日のこと。お父さんがふと外へ出てみると、一人の男が遠くからこちらに向かって歩いて来るのが見えました。姿や服装は変わり果てていましたが、お父さんにはそれが自分の息子だとすぐにわかりました。急いで走り寄って彼を抱きかかえ、何度も口づけして喜びました。息子は、「お父さん、ごめんなさい。私は、もう息子の資格はありません・・・」と言おうとしているのに、お父さんは最後まで聞こうともしません。すぐに使用人たちに言いつけました。

 「さあ、早く、一番よい着物を出してこの子に着せなさい。指輪をはめさせ、靴をはかせなさい。そして、よく肥えた子牛を料理して、お祝いをしよう。いなくなった息子が帰ってきたのだ。死んだも同然のこの子が生き返ってきたのだから。」。それから、盛大なお祝いが始まったのです。

 何と愛に満ちたお父さんでしょうか。実は、この息子の帰りを待っていたお父さんとは、父なる神様のことです。そして、息子とは神様のもとから離れた人の姿なのです。神様は、私たちがどのような罪を犯しても、この息子のように罪を認め、神様のもとに立ち返るなら、神様の方から近づいて、罪をゆるし受け入れてくださるのです。

 

勧め)「父の愛」

 神様は今も、私たちが神様のもとに帰るのを待っていてくださっています。私たちを愛し、受け入れてくださる神様に、キリストの十字架に立ち返りましょう。 

そして私たちはイザヤと共に、たとえ世界がさばきの中にあっても「感謝と勝利の歌」を歌いましょう。