福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2023年6月18日 礼拝メッセージ

「大丈夫です」

葛西説教20230618

1.テキスト「民数記14:425」(民数記13:1714:25

2.タイトル「大丈夫です」

3.中心聖句「民数記13:30

「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

4.本文「大丈夫です」

序)「民数記って何?」

 民数記は私たちに何を教えようとしているのでしょうか。新約聖書は証言します。第一コリント1011節「これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」と。神学者は言います。もし、まっすぐにカナン攻略を始めたなら、荒野生活はシナイを出てから数か月以内で終わったことであろうと。

すなわち、主の御臨在のもとに、約束のものを得ようと旅する彼らの姿は、私たちクリスチャンの姿そのものなのです。彼らの不信仰は、私たちへの戒めのためです。それは民数記で、彼らの荒野の生活の中で記録されていることは、その置かれた環境のつらさ、単純さ、困難、危険の故に、契約の神を忘れ、目的を見失って、神に対してつぶやいた、彼らの不信仰です。彼らが神ご自身とその約束とを心にとめて常に感謝するなら大丈夫なのです。神は主権者にいまし、すべてのことを御手のうちに治め、敵の悪意をも祝福に変えることのできる方であることを忘れてはならないのです。ですから、民数記は大丈夫だと教えるのです。

 

本論)「大丈夫です」

.「ストーリー」

 約束の地を目指したイスラエルの民は、すぐ手前のバランの荒野まで来ました。そして、まず偵察隊を12部族から一人ずつ選びました。そこでモーセは、カナンの地の住民が強いか弱いか、多いか少ないか、またその町が天幕か城壁か、その土地が豊かか痩せているか、木があるかないかを探るように命じました。そして、ちょうどブドウが実る時期なので、取ってくるようにと命じました。そこで彼らは、エシコルの谷で一つのブドウの房を切り取りました。それは、何と二人が竿で担がなければならないほど大きくて重く、立派なものでした。他にもザクロとイチジクもたくさん採りました。

 40日後、12人は偵察を終えてバランに帰って来ました。そこで彼らは、全会衆に果物を見せ、報告しました。「カナンの地は祝福されたすばらしい土地です。しかし、そこの民は強く、しっかりした城壁があり、背の高い巨人の子孫が住んでいます。山地も海辺にもたくさんの敵がいます」と報告したのです。しかし、その中で偵察隊の一人であったカレブは、「私たちはすぐに上って攻め取りましょう。私たちは必ず勝つことができます」と言いました。しかし、一緒に偵察に行ったヨシュア以外の人は、相手は強いからとても駄目だと言い張ります。そして、イスラエルの民たちに「カナンの地は大きな人が住んでいて、自分たちがイナゴのように思えた。そこに住む者に殺されてしまう」と、悪く言いふらしました。それを聞いていた民は、夜明けまで大声で泣き叫ぶ始末です。そして、とうとうエジプトに帰ろうと言い出したのです。

 偵察に行った二人、ヨシュアとカレブは、これに我慢できず、「私たちが探って来た土地はとても良い土地です。神が行くようにされたのなら、必ずその土地を下さるはずです。神に背かず、その民を恐れてはいけません。神が困難を取り除いて下さいます。私たちには神がついているのだから恐れてはいけません」と言いました。しかしイスラエルの民はヨシュアとカレブを石打にしようとするのです。このとき、神は会見の幕屋でモーセに現れ、民の不信仰を怒られました。

 モーセは、また執り成して祈り、民の罪のゆるしを願いました。すると神は、モーセの祈りを聞かれ、赦して下さいました。しかし、神を何度も試み、従わなかった大人は、約束の地に入ることができず、ただヨシュアとカレブだけは入ることが出来るとおっしゃったのです。

 

.「学ぶべき真理」

 ヨシュアとカレブは、目に見えることに動かされませんでした。神の約束を信じて、神の計画通り進もうとしました。この二人は、たとい反対する人の数が多くても、神に従えたのです。それは、神が共にいて下さることと、約束を必ず守られることを確信していたからです。

 

.「あなたはどうしますか」

 どんなに困難なことでも、神の約束なら、神は共にいて、約束を実現して下さいます。大切なのは神を信じて挑戦することです。神を信じないで取り組まないなら、せっかく神が約束された祝福でも受け取れません。神を信じて挑戦するなら、神が勝利を与えて下さり、約束の祝福を受け取ることができるのです。

 

まとめ)「大丈夫です」

 「『主が私たちと共におられます』。これがすなわち信仰の分岐点です」との信仰のことばがあります(小島伊助先生)。主の約束は祝福に満ちたものですが、「棚からぼたもち」ではないのです。『主が私たちと共におられる』という確信を固く持って、しっかり受け取ることが必要なのです。それは自分の力、自分の行いによるのではありません。主と共にあり、主に導かれ、約束を信じて挑戦し、獲得していくのです。だから大丈夫なのです。 

 私たちの生活にも試練や困難はあります。しかし、臨在信仰こそ、どんな困難をも乗り越える勇気を私たちに与えるのです。だから大丈夫です。