福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年3月24日(日)礼拝メッセージ

「救いの完成」

葛西説教20240324

1.テキスト「ヨハネ19:28~30」

2.タイトル「救いの完成」

3.中心聖句「ヨハネ19:30」

 「完了した」

4.本文「救いの完成」

 序)「十字架に至る出来事」

 木曜日の夜に逮捕されたイエスは、その夜の間に、まず大祭司カヤパの前に引き出され、宗教裁判による有罪判決を受けました。その後、ローマ総督ピラトのもとでの政治裁判に回されました。総督の許可がなければ、死刑を執行できなかったからです。そして金曜日の朝、九時頃に十字架につけられ、十二時頃には全地が暗くなりました。今日の聖書箇所は、その後の出来事を描いています。その時にイエスは、十字架上の七つのことばの後半四つを言われたと思われます。ヨハネはそのうち、二つを記していますが、どちらも神の救いの計画が完了したことを示唆しています。

 

本論)「救いの完成」

Ⅰ.「かわくイエス」

 (マタイ27:46)「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたイエスは、苦難の絶頂を味わっておられました。神学者バックストンは、イエスの苦しみは三重だったと言います。肉体においては釘づけられた手足の傷、精神においては人々の罵り、そして霊魂においては全人類の罪を負う痛みです。そもそもイエスが父なる神に捨てられるはずはありませんでした、その聖い神の御子が見捨てられたからこそ、罪ある者の救われる道が開かれたことを肝に命じなければなりません。

 釘が打ち込まれているイエスの両手両足からは、とめどもなく血が流れ出ていました。体中の水分がどんどん減っていったこの時に、イエスは(28)「わたしは渇く」と言われました。これは詩篇69:21の成就でした。イエスがそのように言われたのは、(28)「すべてのことが完了したのを知って」であったことに注目してください。ここの「完了した」ということばは、30節と同じです。イエスの渇きは私たち罪びとの受けるべき刑罰の身代わりでした。ルカ16:24では、ハデスに落ちた金持ちが、「ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください」と願っていることを思い出します。イエスはご自分の肉体をもって、罪びとが受けるべき苦しみを、代わりに体験されたのです。

 

Ⅱ.『「完了した」と言われたイエス』

 (28)「すべてのことが完了した」ということばは、「もうこれで何もかもお終いだ」とか、「これでやっと私の苦しみも終わった」などという意味ではありません。イエスのなすべき使命が完了し、全人類の救いという神の計画が完成したのです。

 神学者ライルは、「完成した」を次の六つの意味において理解しています。①神の義を満足させるために必要なすべての支払いが完了した。②神の救いの計画が完了した。➂イエスが神の聖なる律法を守るというわざを完了された。④律法が予表していた全てのいけにえが、イエスによってささげ終えられた。⑤旧約の預言がすべて成就した。⑥受けるべき苦しみをすべて味わわれた。の六つの意味にです。

 ヨハネ以外の三つの福音書は共通して、死の直前にイエスが大声で叫ばれたことを記しています。きっとこの「完了した」ということばだったのでしょう。それは決して苦しみの叫びではなく、サタンに対する勝利の宣言だったのです。

 なすべきことを完了されたからこそ、イエスは(30)「霊をお渡しになった」のです。前の口語訳聖書では「息を引き取られた」でした。原語の直訳では「霊を引き渡す」です。このことばはルカが記す最後のイエスのことば、(ルカ23:46)「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と同じ内容です。聖書では、イエスの死を言う場合だけにしか用いられていません。ヨハネもルカも、この表現を用いることによって、イエスがご自分の意志によって地上における自分の使命を終えられたことを明白に示しています。

 

Ⅲ.「私たちは信仰によって受け取る」

 救いが完成した以上、それに人間が何かをつけ加える必要はまったくありません。ただ単純に受け取るだけでいいのです。信仰とは空っぽの手です。神学者小島伊助は、「手のものを、みな地におきて、清水かな」という俳句を紹介し、これが信仰だと教えられました。

 二千年前の十字架で、救いは完成しています。今の時代に必要なのは、それを受け入れる信仰だけです。だからこそ、どんな罪びとも、病人も、老人も、子どもも、同じように救われることを忘れないでください。

 

勧め)「救いの完成」

 ですから、もしあなたがイエスを信じて受け入れるなら、あなたの罪の刑罰と弁償は、イエスが十字架によって身代わりに受けてくださいます。あなたも今日、イエスを信じて、この完成した救いを受け取りませんか。

 そしてすでに信仰によって救われている皆さん。このイエスの成し遂げられた「救いの完成」を賛美し、人々に宣べ伝えましょう。それがこの教会の使命なのです。