福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年1月28日(日)礼拝メッセージ

「キリストにつながる」

葛西説教20240128

1.テキスト「ヨハネ15111節」

2.タイトル「キリストにつながる」

3.中心聖句「ヨハネ155節」

「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」(ヨハネ155節)

4.本文「キリストにつながる」

 序)「永遠のいのちの真理」

 主イエスは「永遠のいのちの真理」を十字架にかかられる前日、聖餐が制定された最後の晩餐の席上で、ブドウの木のたとえを用いて教えられました。主イエスは「新しいイスラエル」である弟子たちや、後に生まれるクリスチャンにあてはめて話されました。

 では、ブドウの木が豊かな実を結ぶために大切なことを教えられましょう。

 

本論)「キリストにつながる」

.「農夫、父なる神」

 主イエスは「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(2)と言われます。父なる神は、農夫のように実を結ぶことに関心を持っておられます。実を結ばなかった過去のイスラエルは、バビロン捕囚などの厳しいさばきを受けました。しかしそれと対照的に、実を結ぶ者は、「もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(2)。この表現は、原語では3節の「わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と同じかたちのことばです。すなわち、父なる神は主イエスのことばによって弟子たちを「刈り込み」されるのです。

 父なる神は、旧約時代のイスラエルが豊かな実を結ぶことを願っておられました。しかしそうでなかったために、子なるイエスを「神のことば」としてこの地上に遣わされました。このお方によって人々が豊かな実を結ぶようになるためです。

 

.「枝なる弟子たち」

 弟子たちは、主イエスのことばによって、もうきよくされています。これは直前の洗足の時に、「あなたがたはきよいのです」(1310)と言われていることと同じことなのでしょう。それでも、主イエスに足を洗っていただいて、主イエスとつながり続ける必要がありました。枝は、ブドウの幹につながり、絶えず樹液を供給されねばならないのです。「枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(4)ということなのです。

 主イエスは、父なる神と同じく、本来はブドウの木を管理するお方でした。しかしそのお方がこの地上に木としておいでになりました。このお方につながっているなら、どんな枝でも実を結ぶことができます。しかし、木につながっていなければ、枝は決して実を結ぶことはできません。「もうきよい」(2)者だからこそ、主イエスにつながり続けることが大切なのです。これは当時の弟子たちだけでなく、現在の私たちにも当てはまります。

 

.「多くの実を結ぶ者」

 ブドウの木が豊かに実を結ぶために、農夫は肥料を与え、手入れをします。これは外部からの恵みです。ブドウの木は樹液を送り続けます。これは内部からの恵みです。その結果、ブドウの木は豊かに実を結びます。神学者のバックストンは、こう言います。「この実はどういう実であるのか。これは一番最初に伝道の成功ではありません。…神はまず私たちの心に実を結ぶことを願われるのです。ガラテヤ52223節を見なさい」と。そこには、御霊の実が9つあげられていて、その最初の2つが愛と喜びです。ですから、本日のテキストの9節以降が、この2つの実について語っているのは関係があるのです。

 主イエスは言われます。「わたしの愛の中にとどまりなさい。もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」(15910)。原語では、「(愛の中に)とどまりなさい」という語は「(わたしに)つながる」という語と同じです。主の中にとどまる時に、愛という実を結ぶことができます。そして主イエスの戒めを守ることもできます。父なる神と主イエスとの緊密な関係が、私たちと主イエスの間にも生まれます。その結果、主イエスの喜びが私たちにも生じるのです。

 

お勧め)「キリストにつながる」

 「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です」(ヨハネ155節)。この本日の中心聖句のみことばを、決して忘れてはいけません。人間はキリストにつながってこそ、そのいのちは豊かになり、豊かな人生の実りが与えられるのです。具体的に主イエスにつながるとは、主イエスを信じて、次にみことばをしっかり覚えましょう。そして祈りを通して神の臨在の交わりの中に生き続けることです。

 

ですから、主イエスを信じておられない方は信じて救いを受けてください。そして主イエスを信じて「新しいイスラエル」である新約時代の教会に加えられたクリスチャンは、聖餐の恵みにあずかるたびに、この「キリストにつながる」原則を常に思い起こしましょう。