福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2023年12月17日(日)アドベント第三礼拝メッセージ

「インマヌエル」

葛西説教20231217

1.テキスト「マタイ11825

2.タイトル「インマヌエル」(神が人となり、人と共におられる救い主)

3.中心聖句「マタイ123節」

「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」

4.本文「インマヌエル」

 序)「クリスマスの本当の意味」

 クリスマスは、2千年前に主イエスが地上にお生まれになられたことを祝うだけの日ではありません。神が人となり、人と共に歩まれることを喜び祝う日です。この時にこそ、主イエスは、私たちの罪を赦し、私たちを聖なる者とするために、今も私たちと共におられることを信じましょう。

 本日、マタイの福音書が開かれ読まれましたが、マタイはヨセフの立場から、イエスの誕生の出来事を語っています。そしてシンプルにマリヤが聖霊の働きによって妊娠したことを告げています。ヨセフは離婚を考えましたが、天使の訪問によって主の導きを得ました。ここでも処女降誕が強調されています。しかも旧約聖書の預言の成就として。

 

.「処女から生まれた方」

 ヨセフはマリヤと婚約していました。「ユダヤの婚約は法律上の夫婦となることでした。この婚約の期間は一年ほどで、これを解消するには離婚手続きが必要でした」。ところがこの期間中に、ヨセフはマリヤが妊娠していることに気づきました。マリヤはルカ1章に記されている事柄をヨセフに話していなかったのか、話しても信じてもらえなかったのかわかりませんが。もしこの事実が公になるなら、マリヤは律法に従って、石打の刑に処せられます(申命記22:23.24)。そうならないために、ヨセフは「内密に去らせようと決めた」と。内密に去らせたら、マリヤは妊娠させた相手と結婚出来て、罰を受けずに済むからでした。この行動は、ヨセフであってさえ、マリヤの処女妊娠を信じられなかったことを示唆しています。

 「処女がみごもって」という預言は、イザヤの時代に、彼の息子かヒゼキヤ王の誕生によって成就したという解釈もできます。しかし、「処女」ということばの本来の意味は「結婚していない女性=処女」であり、イザヤの預言は処女の妊娠を示しています。このことをヨセフに知らせるために、「主の使いが夢に現れて言った。『・・・その胎に宿っているものは聖霊によるのです』」と。この体験を通して、ヨセフはやっと処女妊娠を認めたのです。

 

Ⅱ.「罪から救うお方」

 主の使いは続けてヨセフに言います。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と。イエスとは、ヘブル語でイェホシュア(旧約聖書では「ヨシュア」と訳されています)の短縮ギリシャ語で、「主は救い」という意味です。ヨセフはこのことばを聞いたとき、事の重大さに身震いしたのではないでしょうか。神の選民であるユダヤ人がバビロンに捕囚となり、この時代もローマ帝国の占領下にある現実は、神のことばに従わなかった民の罪の結果でした。しかし、それら民のもろもろの民の罪から救うために、マリヤから生まれる子どもが用いられるのです。

 「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ」ました。マリヤから生まれた赤ちゃんを、自分の子どもとして育てることを決心しました。また、将来どのような形でこの子が民を罪から救うのか分かりませんでしたが、御告げに従ってイエスと名付けました。

 

.「共にいるお方」

 「その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言は、主イエスによって文字通りに実現しました。だが新約聖書の福音書のどこにも、主が「インマヌエル」と呼ばれている箇所はありません。それは呼び名ではなく、主がどういうお方かを示すことばだからです。ヘブル語では、インマヌーとは「私たちと共に」、エルとは「神」という意味をもちます。つまり、神ご自身が、罪深い私たち人間と共に生きてくださることを宣言しているのです。確かに、普通の人なら、処女から生まれたり、民を罪から救ったりできるはずはありません。イザヤは、神ご自身が人となって人と共に住むという奇跡中の奇跡を、すでに700年前に預言していたのです。

 その公生涯において、主イエスはことばと行動によって、ご自分が「人と共にいます神」であることをお示しになりました。それを信じた人たちは、神と共に生きる幸せを実感しました。さらに主は、この地上から去られる時にも「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(28:20)と言われました。これは、主が現代の私たちと共にいてくださるという、明確な約束です。

 

まとめ)「インマヌエル」

 皆さんは神がどんなお方で、今どこにおられるかを知りましたね。ですから、神は目に見えないから分からないとか。また遠い天国におられるのだと思ってはいないですよね。

確かにイエスは「わたしを見た者は、父を見たのです」(ヨハネ14:9)と、神の姿を現すために、地上にお生まれくださいました。そして、イエスを信じる私たちひとり一人と、いつ、どんな時も離れずにいるためにも生まれてくださったのです。イエスは、今も信じる私たちと一緒にいてくださいます。

 

 ですから、イエスを罪からの救い主として信じましょう。そして、困難な時代の今、平安な道を備えてくださるイエスと共に生きましょう。