福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年2月11日(日)礼拝メッセージ

「油断」

葛西説教20240211

1.テキスト「マタイ25113節」

2.タイトル「油断」

3.中心聖句「マタイ2513節」

「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」

4.本文「油断」

 序)「花婿?ともしび?油とは?」

 さて、本日のテキストの「花婿」は誰のことでしょうか。イエスですね。イエスはこの花婿のように突然来られます。いつ来られるのか分かりません。だから、イエスがいつ来られてもいいように、準備したいものですね。 

 イエスをお迎えする準備は何でしょうか。それはイエスを信じることです。イエスが私の罪のために十字架で身代わりになって死んでくださったことを信じることです。イエスがいつ来られてもいいように準備しましょう。

 そしてともしびとは教会生活や信仰生活です。そのともしびをともす原動力となる「油」は聖書がいつも象徴している「聖霊」と考えられています。

 

本論)「油断」

.「イエスの警告」

 イエスはエルサレムでの受難を前にして、「世の終わり」(24:3)について弟子たちに教えられました。この世の終末、イエスの再臨の日がいつであるのか、「その日、その時がいつであるかは、だれも知りません」(24:36)と。ただしイエスはその予兆を教えられました(24:431)。そしてイエスは、「これらのことのすべてを見たら、あなたがたは、人の子が戸口まで近づいていると知りなさい」(24:33)と警告されました。

 「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます」(24:14)と。神は全人類に救われるチャンスを与えようとしておられます。しかし、「ちょうど、ノアの日のよう」(24:37)に、多くの人々は警告のみことばに耳を貸さず、終末の予兆について気がつかないのです。

 「だから、目をさましていなさい」(24:42)、「だから、あなたがたも用心していなさい」(24:44)と、イエスは繰り返して警告されました。この極めて重要な真理を弟子たちに徹底して理解させるために、イエスはさらに、たとえ話を用いて教えられました。それが本日のテキストです。

 

.「愚かな娘と賢い娘」

 当時、ユダヤ人の結婚式では、花嫁の友人たちは花嫁の家に待機していて、「花婿」が彼女たちを迎えに行き、花婿の家で開かれる婚宴に連れて来ることになっていました。ここに登場する「十人の娘」は「ともしび」を用意して待っていました。暗い夜道を照らしながら行くためでした。ただし、「そのうちの五人は愚かで」、「ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった」のです。しかし「賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた」のです。

 ところが、何らかの事情で、「花婿が来るのが遅れ」ました。彼女たちは「みな、うとうとして眠り始め」ました。そして、「夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ』と叫ぶ声がし」ました。花婿に同伴した友人が少し先に来て、彼女たちに花婿の出迎えを促したと思われます。「娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整え」ました。ところが、「愚かな娘たち」のともしびは消えかかっていました。彼女たちは「賢い娘たちに」油を求めますが、断られました。そこで、彼女たちは店に油を買いに出ました。

 その間に「花婿が来」ました。「用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられ」ました。「そのあとで、ほかの娘たちも来て。『ご主人さま、ご主人さま。あけてください』と言いました。「しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません』と言いました。

 

.「油断」

 これまで、イエスが「花婿」であることが明らかにされ(9:15)、天国は「婚宴」にたとえられています(22:2)25章の「花婿」もイエスを指します。「娘」たちはクリスチャンです。「花婿」の到着の遅延は、イエスの再臨が多くの人たちの予想よりも遅れることを意味します(Ⅱペテロ3:4.9)。そのために「油」の備えが足りない人々が出て来ます。まさに「油断」です。そのような人々はイエスの再臨の時に「天国」に入ることができません。

 閉められた「天国」の「戸」は再び開けられることはありません。最後の審判は、全人類の永遠の運命が真っ二つに分けられる厳正な裁きです。それ以降、もはや変更はあり得ないのです(25:41.46)。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです」

 

勧め)「油断」

 まず、今、イエスを信じておられない方は信じて、救いを受けてください。

 そして賢い娘たちのように、イエスの再臨を待ち望む日々の生活において、目に見える教会生活・信仰生活の基盤を、いつも聖霊に満たされることに置くと心がけましょう。

 聖霊の油の切れたクリスチャンは、形式的に信仰を保つことができても、内容は律法主義のとりこのように無味乾燥です。愛と喜びのないクリスチャン生活です。

 

 ただ救われた私たちは、滅びゆく魂のために福音の種をまき続けましょう。