福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年3月10日(日)礼拝メッセージ

「バルテマイの叫び」

葛西説教20240310

1.テキスト「ルカ18:3543

2.タイトル「バルテマイの叫び」

3.中心聖句「ルカ18:41

「主よ。目が見えるようになることです」

4.本文「バルテマイの叫び」

 序)「ポイントとなるみことば」

 本日のテキストの中で、ポイントとなるみことばが(41)に二つあります。それはイエスの(41)の「わたしに何をしてほしいのか」と、バルテマイの(41)の「主よ。目が見えるようになることです」。

まず、イエスの「わたしに何をしてほしいのか」のことばには、この質問が主イエスの神であることを証明していると言われています。なぜなら、イエスが目の不自由な人の求めを知らないはずはないからです。また、あわれんでくださいとの願いが、目を開けて欲しいことは明らかだからです。しかしそこをあえて尋ねられたのは、イエスが全知全能であることを前提のうえで、彼に自分の口で願い求めることを具体的に言わせ、信仰を告白させるためだったからでした。

 バルテマイの(41)「主よ。目が見えるようになることです」。これは彼の深い願いであると共に、主イエスが自分を見えるようにしてくださるという信仰の告白でもあります。普通にはありえないことを本気で求めているところに、彼の信仰が表れています。これがまた彼を主イエスに従う者とさせたのでした。この二つのことを心に刻んでください。

 

本論)「バルテマイの叫び」

.「バルテマイはイエスに叫んだ」

 これは(35)「イエスがエリコに近づかれたころ」の出来事でした。「エリコ」はエルサレムの北東25キロメートルほどの所にある町です。

 (35)「ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをして」いました。マルコ10:46によれば、彼の名前は「バルテマイ」です。この地方は気候風土や環境衛生の関係から炎症性の眼病を患う人が多かったようです。ですから、彼もそのような病気によって視力を失ったのかもしれません。だが当時のユダヤ人は、目が見えないことは神の懲罰によるのだと考えていました。ヨハネ9:2にも、弟子たちはイエスに質問して「先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか」と言っています。

 マタイ20:30には「道ばたにすわっていたふたりの盲人」とあるように、このような人たちが町の門など人通りの多い場所で(35)「物ごい」をしているのは日常的な光景であったようです。また(使徒の働き3:2)にも「生まれつき足のなえた人が運ばれて来た。この男は、宮に入る人たちから施しを求めるために、毎日「美しの門」という名の宮の門に置いてもらっていた」とあります。彼らは肉体的物理的な困難や経済的な貧困、宗教的社会的な差別といった多くの重荷を背負って生きていたのです。

 彼は(36)「群衆が通って行くのを耳にして、これはいったい何事ですか、と尋ね」ました。エリコはいつも活気のある町でしたが、この時は特に過越しの祭りでエルサレムに上る巡礼者が大勢この町を通り過ぎていました。その上イエスの周りには、彼こそメシヤ(神が特別に選んで遣わされる救世主、キリスト)ではないかと期待する人々が群がっていました。それでザアカイの話のように(19:3)「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」、そのような状況でした。

 バルテマイはその人々から(3738)『ナザレのイエスがお通りになるのだ、と知らせると、彼は大声で、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と』叫ぶのでした。「ダビデの子」と言うのは、メシヤに対しての呼び名です(聖書中でもそのように呼ばれています。イザヤ9:6711:15、マタイ1:1、ヨハネ7:42、ローマ1:3)。また旧約聖書にはメシヤが目の不自由な人の目を開くという預言があります(イザヤ29:1835:542:7)。実際、イエスは目の不自由な人の目を癒しておられます。イエスはバプテスマのヨハネの弟子からの質問に対して(ルカ7:22)「あなたがたは行って、自分たちの見たり聞いたりしたことをヨハネに報告しなさい。目の見えない者が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている」と言われました。それゆえに、(39)『彼を黙らせようとして、先頭にいた人々がたしなめたが、盲人は、ますます「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた』のでした。

 

.「バルテマイはイエスを信じました」

 バルテマイの叫びはイエスに届きました。そこで(40)「イエスは立ち止まって、彼をそばに連れて来るように言いつけられた」のでした。イエスは(41)『彼が近寄って来たので、「わたしに何をしてほしいのか」』と尋ねられました。彼の願いが視力の回復にあることは一目瞭然です。彼はそれを求めて激しく叫び続けていたのですから。しかし、それでもなお、イエスはあえて彼にお尋ねになりました。それは信仰を確かめ、より強固なものにするためでした。

 イエスは熱心に求める者に豊かに応えてくださいます。(11:513)にもそのように記されています。しかし、ご利益信仰のレベルならば、人は癒されたら満足して、主から離れてしまいます。(17:17)のツァラアトからきよめられた9人もそうでした。人に本当に必要なものは、主イエスご自身を求め、主ご自身に従っていく信仰です。

 バルテマイは、(41)「主よ。目が見えるようになることです」と言いました。イエスにはそれができるお方であると、彼は固く信じたのです。そこで(4243)『イエスが彼に、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを直したのです」と言われると、 彼はたちどころに目が見えるようになり、神をあがめながらイエスについて行った。それを見て民はみな神を賛美』しました。

 

まとめ)「バルテマイの叫び」

 バルテマイが持っていたメシヤに対する知識はそれほど豊富ではなく、世間の人々が常識として知っている程度だったでしょう。しかし、それでも「幼子」のような彼の霊の目はすでに開眼していたのです。イエスも(ルカ18:17)「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、入ることはできません」と教えておられます。これは霊の目が閉ざされていた弟子たちとは対照的でした。

では、私たちの霊の目は開かれているでしょうか。「信仰によって救われる」。これはクリスチャンならだれでも知っている真理です。しかし、主イエスはあえて私たちにお尋ねになられます。(41)「わたしに何をしてほしいのか」と。

 

ですから、私たちも霊の目を開かれ、信仰を告白しましょう。そして生ける主イエスのみわざを礼拝して、従って生きましょう。