福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年3月3日(日) 礼拝メッセージ

「取税人の祈り」

葛西説教20240303

1.テキスト「ルカ18:914

2.タイトル「取税人の祈り」

3.中心聖句「ルカ18:13

4.本文「取税人の祈り」

 序)「この個所の教えのポイント」

 皆様は自分の罪を悲しんで、「神様、私の罪をお赦しください」とお祈りしたことがありますか。この個所の教えのポイントは、神は正直に自分の罪を認めて、「ごめんなさい」とお祈りする人を喜んでくださると言うことです。そして、イエスの十字架の身代わりを信じる人の罪を全部赦してくださるのです。パリサイ人のように、自分は正しいと威張った祈りではなく、取税人のように、「私の罪をお赦しください」と真心からお祈りしましょう。 

 

本文)「取税人の祈り」

.「自分の義を誇るパリサイ人の祈り」

 この話には、二人の対象的な人物が登場します。「ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人で」(10)した。二人とも「祈るために宮に上った」(10)が、その態度はまるで違うものでした。

 「パリサイ人」は、ヘレニズム文化やローマの皇帝崇拝がユダヤに持ち込まれる時代にあって、聖書の律法に基づく伝統宗教の営みを守るために熱心に活動していた人々です。その熱心が行き過ぎて、彼らは過剰な量の戒律を生み出していました。そしてそれを守らない「罪人」(13)を、彼らが指導する会堂(シナゴーグ)から締め出していました。

 この「パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』」(11)と。

 彼は戒律を破らなかっただけでなく(出エジプト20:317)、善行に励んでいました。律法では年一回の断食が定められていましたが、パリサイ人は1週間に月曜日と木曜日の「二度断食し」(12)ていたようでした。また、パリサイ人は厳格に「十分の一をささげて」(12)いたのでした(ルカ11:42)

 そもそも、「心の中でこんな祈りをした」(11)とは、直訳すると「自分自身の前にこう祈った」となり、これが単なる独り言であって、真の祈りでないことは明らかでした。彼は神の前に自分が何者なのかではなく、周りの人との比較の中で優劣を述べ、神に自分の正しい行いを認めてもらおうという祈りでした。この祈りを神は受け入れられるでしょうか。

 

.「自分の罪を悲しむ取税人の祈り」

 一方、「取税人」(10)は人々から税金を徴収して、ユダヤ人が軽蔑する異邦人であるローマ帝国や領主に上納していました。しかも、当時の「取税人」は規定以上の金額を徴収して私腹を肥やしていました。「パリサイ人」は自分が「この取税人のようではないことを、感謝します」(11)と祈っていますが、それほど「取税人」はユダヤの人々から嫌われ、非常に軽蔑されていました。

 「取税人」はエルサレムの神殿に向かいましたが、「遠く離れて立ち、目を天に向けようとも」(13)しませんでした。それは自分自身の罪深さを自覚していたからでした。この汚れた身は聖なる神に近づくにはふさわしくないと。そう思いつつも、彼は神を求めて、ここまで来ずにはいられませんでした。「自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』」(13)と。これは切なる心の叫びでした。

 

Ⅲ。「神が受け入れ義とされる祈り」

 ここまでたとえを話して、イエスは言われました。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません」(14)と。この話を聞いていた人たちは非常に驚いたことでしょう。これはユダヤ教徒の常識とは真逆でした。なぜ、このような大逆転が起こったのでしょうか?それでは神の義はどうなるのでしょうか?私たちが積み上げてきた善行は無駄だと言うのでしょうか?「パリサイ人」でなくても疑問を感じることでしょう。

 この大逆転が起こるのは、罪なき神の子のイエスがこの後、人々の罪を贖うために身代わりとなって、十字架に死なれるからです。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる」(ガラテヤ3:10)と書いてあります。ですから、神の完全な義の基準に照らせば、一点でも律法違反があれば有罪とされます。それで「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいない」(ガラテヤ3:11)となるのです。それゆえ「人は律法の行いによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる」(ガラテヤ2:16)のです。

 

結論)「取税人の祈り」

 イエスは教えます。「なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(14)と。私たちもこの「取税人」のように自分の罪を認めてへりくだり、イエスの十字架にあって神に赦しを求めましょう。聖書は教えます。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)と。

 

 この「自分を低くする者は高くされる」(14)は、自分が神の前に何者でもないことを認め、神に全く寄り頼む者こそ、神に受け入れられます。これは聖書を貫く一つのテーマです(箴言18:12、Ⅰペテロ5:6など)