福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年3月17日(日)礼拝メッセージ

「ザアカイの救い」

葛西説教20240317①(キリストには希望がある)

1.テキスト「ルカ19:1~10」

2.タイトル「ザアカイの救い」(イエスの十字架は失われた者を救うためであると知る)

3.中心聖句「ルカ19:10」

「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

4.本文「ザアカイの救い」

 序)「中心聖句に込められたもの」

 本日の中心聖句は(ルカ19:10)「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」。この中心聖句に込められたものは何でしょうか?「失われたもの」とは、原語では間違った場所にいることを意味していて、本来いるべき神の元から離れている人のことです。「罪人」ということばも同じ意味で使われています(5:32)。ルカ15章のいなくなった羊、なくした銀貨、いなくなっていた息子などを取り戻すたとえ話の生きた実例が「ザアカイの救い」にあるのです。そして、これがルカによる福音書の大切なキーワードです。

 

本論)「ザアカイの救い」

Ⅰ.「木に登るザアカイ」

 まず、聖書は本日の主人公と状況を説明します。(1・2)「イエスは、エリコに入って、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった」と。

 「エリコ」は交通の要所にあり、くだものが豊富に採れるオアシスのある都市として栄えていました。ここには税金を取り立てる関所があり、「ザアカイ」という人がこの地域の「取税人のかしら」でした。ローマ帝国は地方の租税や関税を直接取り立てずに、徴税請負人に取り立てを請け負わせていました。さらに徴税請負人は下請けの集金人を雇って実際の取り立てを行わせていました。このように取税業務はいくつかの階層構造になっていました。ですから、「取税人」にもピンからキリまでいたのです。ローマ政府は税額の査定をするだけで、取り立てはこれらの取税人に任されていたため、取税人は査定額以上の金額を取り立てて、私腹を肥やすことができました。それは徴税権が競売に出されるほど、この仕事にはうま味がありました。

 そして、聖書は主人公の心理描写と行動をこのように記します。ザアカイは(3・4)「イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからで」したと。

 現在もエリコには「ザアカイの木」と呼ばれる大きな「イチジク桑の木」があります。この木はクワ科の常緑樹ですが、イチジクに似た実を付けるのでこの名で呼ばれます。この木は成長すると10~15メートルの高さになります。ザアカイは一生懸命、(4)「前方に走り出て、いちじく桑の木に」登りました。彼は何としてもイエスを見たかったのです。ザアカイはどんなに財産を蓄えていても、彼の心は満たされていなかったのでした。彼の心は飢え渇き、切実にイエスに救いを求めていたのでした。

 

Ⅱ.「イエスを迎え入れるザアカイ」

 聖書は、心からイエスに救いを求めるザアカイへのイエスの愛を記します。(5)『イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」』と。

 初対面なのにイエスが自分の名前を呼ばれたことに、ザアカイは驚いたことでしょう。「ザアカイ」という名は「きよい」とか「純粋」という意味です。実際のザアカイはとても「きよい」とか「純粋」とは呼べない男ですが、なんとイエスは彼に、「今日、私はあなたの家に泊まらなければならない」(5節直訳)と言われたのです。

 聖書はこの救いのもたらす驚きの場景をこのように描きます。(6・7)『ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた」と言ってつぶやいた」』と。

 取税人は、ユダヤ人が憎むローマ帝国に仕え、律法を守らない汚れた異邦人と接触しており、しかも同胞から金銭をむしり取っていましたから、「罪人」として人々から軽蔑されていました。ところが、イエスはこの(5)「罪人のところに行って客となられた」のです。ザアカイの顔は大喜の心から来る笑顔で溢れていたのでした。

 

Ⅲ.「悔い改めるザアカイ」

 聖書は、ザアカイの悔い改めの実とイエスの使命をこのように記します。(8~10)『「ザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」」と。

 ザアカイは「悔い改めの実を結ぶ」ことをイエスに約束しました。これはイエスが以前(3:8)教えられたことです。 そしてこれが彼の「アブラハムの子」として、信仰により神に義と認められ、救われた証なのです。パウロも聖霊に満たされて教えています(ローマ4:11~12)。

 

勧め)「ザアカイの救い」

 本日の教えは、このみことばに集約されています。

 「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」(10:10)

 神の御子イエスは「失われた人を捜して救うために」この世に来てくださったのです。救いはイエス・キリストが成就された恵みのみわざです。私たちがすべきことは、ザアカイのようにイエスを求め、イエスを私たちの主として心にお迎えすることです。どうかイエスを信じて心を満たされ、新しい人生を歩みましょう。

 また、すでにイエスを心にお迎えした皆さん、このザアカイのように喜びをもって、礼拝し、この福音を宣べ伝えましょう。