福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

(写真は古いものですが、説教は新しいものです。)

葛西説教20230129

1.テキスト「ルカ15:1-7

2.タイトル「迷子の羊」

3.中心聖句「ルカ15:6

『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』

4.本文「迷子の羊」

 序)「神のさばきを恐れない」

 先週イエス様は羊のために命をも捨てる方、私たちの羊飼いと聖書から教えられました。イザヤは「主よ。まことにあなたのさばきの道で、私たちはあなたを待ち望み、私たちのたましいは、あなたの御名、あなたの呼び名を慕います。」(イザヤ26:8)と。イザヤは、キリストにある義人が神のさばきを恐れないと言います。それは、キリストにある義人が完全であって罪がないからではありません。さばきを通して神が最善をなしてくださることを知っているからです。ハレルヤ!

 本日は、イザヤの言う通り、神様というお方は、神様に背を向けて生きる人、神様から遠ざかっている罪びとを捜し出して、連れ帰ってくださるお方だと教えていただきましょう。

 

本論)「迷子の羊」

Ⅰ「イエス様のもとに集まった人」

 イエス様のもとにはいつでも、イエス様のお話を聞きたいと思う人たちがたくさん集まって来ました。子供から大人や、年配の人たち、そして取税人や罪人と呼ばれる人たちなど、実に多くの人々が集まって来ました。

 その中で、パリサイ人や律法学者たちは、取税人や罪人たちは神様に捨てられて当たり前だと考えていました。でも、イエス様が、彼らを自分たちと同じように扱われるのを見て、おもしろく思っていませんでした。ですから、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている」と言って、イエス様の悪口さえ言い始めたのです。

 そこで、イエス様は、どんなに人に嫌われている人であっても、神様から愛されていることを教えるために、迷子の羊の話をされたのでした。

 

Ⅱ「いなくなった一匹」

 ユダヤの国、イスラエルでは、今でも羊飼いたちが一人でたくさんの羊を引き連れて草を食べさせているのを見かけます。それはイエス様の時代から変わっていない風景です。

 イエス様が話されたたとえ話とはこのようでした。ある人が百匹の羊を飼っていました。この羊飼いは百匹もの羊を飼っていても、一匹一匹の羊をよく知っていて、名前を付けて覚えていました。なので、一匹一匹をどれほど大切にしていたことでしょう。

 実は、神様も同じなのです。神様はどんなにたくさんの人がこの世界にいても、私たちひとり一人をよく知っておられ、愛していてくださるのです。

 私たちはつい「百匹のうち一匹位、いてもいなくても分からないだろう」と思ったり、「いや、いない方がいいのだ」と思ったり、「世界にはこれだけたくさんの人がいるのだから、自分一人くらいわがままを言ったり、悪いことをしてもかまわないだろう」と考えたりしがちではないでしょうか。

 でも、羊飼いが自分の飼っている羊を大切にし、一匹がいなくなるとすぐに気づくように、神様も私たちが神様の前から離れるなら、すぐに気づいて悲しまれるのです。

 

Ⅲ「探し出す羊飼い」

 ある時、一匹の羊が群れから離れて迷子になってしまいました。さっそく気づいた羊飼いは、他の九十九匹の羊を野原に残しておいて、捜しに出かけました。

 イスラエルでは羊飼いたちの多くは、町から離れた岩や山の多い所にある放牧地に羊たちを連れて来ます。ですから、いなくなった羊を捜そうと思うと大変です。山を登ったり、崖を下りたりしなければならないのです。羊飼いは、そんな大変な目にあいながら、そのたった一匹の羊でさえも捜し歩くのです。そして、ようやく捜し出すと、喜んでその羊を自分の肩に乗せて帰ってきます。そして友人たちを集めて、「一緒に喜んでください」と喜びを分かち合います。いなくなっていた羊が見つかることは多くの人々の喜びとなるのです。

 この羊飼いとは、イエス様のことです。イエス様は、神様から離れて罪の道に迷子になっていた私たちを捜すために、この地上に来てくださいました。しかも、羊飼いの犠牲どころではなく、ご自分を十字架につけるほどにまで、私たちを愛して、捜し続けてくださるのです。それは多くの人々の喜び、そして天の喜びとなるのです。

 

勧め)「迷子の羊」

 迷子の羊とは私たちひとり一人のことです。イエス様は私たちを見つけ出して神の国に導くために、この世界にきてくださいました。それほどまでに愛してくださっているイエス様の愛に感謝して、神様のもとに立ち返りましょう。そうするなら私たちは、キリストにある義人として新しく生きることができるのです。

 

キリストにある義人は、「あなたの御名、あなたの呼び名を慕います」とイザヤが言いました。呼び名とは「記念」という意味です。御名が神の「本性」を表わすのに対し、呼び名は、神のなさったいろいろなみわざが、神の民によって体験され、記憶され、語り継がれる礼拝を意味します。ですから、キリストにある義人は礼拝に導かれ、礼拝を体験するのです。