福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2023年5月14日 礼拝メッセージ

「主の過越し」

葛西説教20230514

1.テキスト「出エジプト12:1-27

2.タイトル「主の過越し」

3.中心聖句「出エジプト12:13

「わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。」

4.本文「主の過越し」

 序)「十字架と聖餐式」

 神は、イスラエルの人々を救い出すために、エジプトに対して10の災いを送られました。その10番目は、現代のユダヤ人も祝っている過越しの祭りの元になった出来事です。過越しの祭りは、後にイエスの十字架に結びつきます。十字架の前夜、イエスは弟子たちと過越しの食事をされました。そしてそこで新しい意味をお与えになられました。この時イエスによって与えられたご命令により、教会は聖餐式を守るようになりました。聖餐式とは、十字架上でイエスの肉が裂かれ、血が流されたことによって、罪の赦しと永遠のいのちの恵みが与えられたことを記念するものです。

 では、この過越しの祭りのいきさつを通して、私たちも、罪と悪魔の支配から、いかにして救われるのかを教えていただきましょう。

 

本論)「主の過越し」

.「ストーリー」

 さあ、10番目の災いが下されるのです。モーセは、パロに最後の通告をしました。「神はエジプトの国にいるすべての初子を、王の子から家畜の初子に至るまで、エジプトのすべての初子を打つと言われました。しかし、イスラエルの人々に対しては、何の災いも起きません。だから、早くイスラエルの人々をエジプトから出してください」と。しかし、パロは心をかたくなにして、イスラエルを解放しませんでした。

 この災いを起こそうとされた神は、まずモーセとアロンに、現在の3月から4月にあたる麦が穂をつける時期を、イスラエルの正月とするようにと言われました。それは、イスラエルの人々がこの時期に、神の働きによりエジプトの奴隷から救われ、解放されたことを記念とし、そのことを子どもたちに祭りを通して、意味を伝え続けるためでした。

 そして次に神が教えられたのは救いの方法でした。それは全く傷のない1歳の雄の子羊を殺して、その血を家の入口の柱に塗って印を付けるというものでした。そうすると、その家には災いが柱の血により、過越されるというのです。

 そして神は、その子羊の肉を火で焼いて、皆で食べなさいと言われました。それは食することにより、その犠牲の子羊の救いを家族皆が受け入れたということになりました。

 さらに神は、種なしパンを一緒に食べなさいと言われました。種とはイースト菌のことです。その菌を混ぜると腐りやすくなることから、罪を持ったままではいけないことを意味します。またパンの発酵を待つ時間はなく、一刻も早く罪を離れ、悔い改めることを意味しました。

 その夜のことです。主はパロの初子から家畜の初子まで、エジプトのすべての初子を打たれました。そのことでエジプト中の家々が激しい悲しみに包まれました。この災いに恐れおののいたパロは、ようやく夜中にモーセとアロンを呼び寄せ、エジプトから出て行くことを許したのです。

 

Ⅱ.「本日の学ぶべき真理」

 エジプトでの奴隷生活が表しているのは、人は罪と死の奴隷、悪魔とこの世の奴隷だということです。そしてそこから神が救う方法は、過越しという、子羊を身代わりの犠牲とする方法でした。これは、イエスの十字架の犠牲を表しています。すなわち、イエスに罪の身代わりとなってもらった人は、滅ぼされないということの表れなのです。

 この子羊を、種入れぬパンとともに食べなければいけないのです。これは、一刻も早く罪を悔い改めて、イエスを信じ受け入れないと救われないことを表しています。イエスを信じる人は、十字架の犠牲により、永遠の滅びから救われるのです。

 主の過越しは、人類が救われるために何が必要かを、イスラエルの歴史を通して、現代に至るまで教えているのです。

 

Ⅲ.「あなたはどうしますか」

 さて皆さんは、本日の聖書の教えをどのように聞かれたでしょうか。皆さんは御自身が罪の奴隷になっているなんて、考えもしないかもしれません。しかし、罪を犯さずに生きることはできないのです。聖書はすべての人は罪びとだといっています。このことをよく考えて、あなたにもイエスの十字架を信じていただきたいと願います。

 

まとめ)「主の過越し」 

 本日は「主の過越し」というタイトルでイスラエルの人々がエジプトの奴隷から救われる歴史上の事実を通して、イエスの十字架の救いが私たちにも必要であるとお話しました。ですから、イエスの十字架を信じていない人は、今信じていただきたい。また、すでに信じておられる皆様には、まだこの救いを信じていない、愛する家族のため、友人のため、隣人のために祈り、伝道していただきたいのです。それがこの教会に私たちが集められた私たちの召命なのですから。