福音伝道教団

葛西福音キリスト教会

礼拝聖書のお話し

2024年2月25日(日)礼拝メッセージ

「神の愛と喜び」

葛西説教20240225①

1.テキスト「ルカ15:11~32」

2.タイトル「神の愛と喜び」

3.中心聖句「ルカ15:14」

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」

4.本文「神の愛と喜び」

 序)「この個所で言われていること」

 「またこう話された」(11)とは、誰に対して言われたのでしょうか。それはパリサイ人や律法学者たちです。彼らはイエスが取税人や罪人たちを受け入れていることを非難しました。宗教的、道徳的、社会的理由で世間から、のけ者にされていた彼らと親しく交わることは、イスラエルの教師にあるまじきことでした。そういう非難に対しての答えとしてイエスは、「失われた羊」(4~7)、「失われた銀貨」(8~10)、そしてこの「失われた息子」の話をされました。この3つの話に共通するテーマは、神は罪びとが悔い改めるのを喜ばれるということです。すなわち、この個所には「神の愛と喜び」が教えられているのです。

 弟とは誰でしょうか。それは神のことを知らず、悪いことばかりをしてきたが、教会に導かれ、罪を示され神の愛を知り、イエスを救い主として信じた人です。

 兄とは誰でしょうか。それは幼少の時から教会学校に導かれ、神のことを知っていたが、神を愛さず、人をねたんだり憎んだりしていました。しかしその冷たい心を示され、神の愛を知った人です。

 

本文)「神の愛と喜び」

Ⅰ.「放蕩に身を持ち崩す弟」

 「ある人に息子がふたりあった。弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった」(11.12)のです。この父親は大勢の「しもべ」を抱え、「畑」や家畜を持つ裕福な人です。この場合、次男の取り分は最大で3分の1です(申命記21:17)。「それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立」(13)ました。そこで「遊女におぼれて」(30)、「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」(13)のです。

 その頃「その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた」(13)のです。金の切れ目が縁の切れ目でした。親しかった人たちも皆、彼を見捨てたのでしょう。そこで彼は「その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせ」(15)ました。「彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった」(16)のです。豚はユダヤ人が忌み嫌う動物です。彼はどん底に身を落としたのです。この弟は、律法を守らぬ者として差別され、宗教社会から排除された取税人や罪人を指し示しています。

 

Ⅱ.「息子に走り寄る父」

 [我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください」』](17~19)と。彼は立ち上がり、空きっ腹を抱えながら、とぼとぼと父のもとへ向かいます。

 父親は息子である弟が旅立った道のかなたを毎日見つめながらその身を案じ、彼が帰る時を待ちわびていたことでしょう。その証拠に彼が「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ」(20)たのです。父親は彼を「かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけ」(20)しました。彼は用意したことばを述べて父親に詫びます。「あなたの子と呼ばれる資格はありません」(21)と。しかし、父親は彼のことばをさえぎり、しもべたちに最上の着物と指輪、履物を持って来させます。父親は言います。「肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」(23.24)と。どんな過ちを犯しても、どんなに落ちぶれても、息子はやはり息子です。この父親は神を指し示しています。神は憐れみ深い、私たちの天の父親です。

 

Ⅲ.「怒る兄」

 祝宴が始まった時、「兄息子は畑に」(25)いました。彼が「帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえ」(25)ました。この祝宴が弟のためだと知り、「兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめ」(28)ます。彼は抗議して「長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」(29.30)と。ここでのポイントは、兄は父親との関係を主人と奴隷の関係のように理解していたのではないでしょうか。また彼は彼の弟も認めず、「あなたの息子」(30)と呼びます。この兄は律法の奴隷となっているパリサイ人や律法学者たちを指し示します。

 この兄に対して父親は「子よ」(31)と呼びかけて言います。「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」(31.32)と。

 

勧め)「神の愛と喜び」

 イエスの話はここで終わります。兄は父親にどのように答えるべきでしょうか。イエスはそのことをパリサイ人や律法学者たちに問いかけておられます。

 ではあなたと神の関係はどうでしょう。あなたと隣人の関係はどうでしょう。どうか、父なる神の愛を悟り、互いに兄弟姉妹の愛で愛し合う神の喜ばれるクリスチャンであり、教会とさせていただきましょう。