福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2016年1月)

以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2017年1月1日(新年礼拝)

1.テキスト「ヨハネ737から44節」

2.タイトル「今年も御霊と共に」

3.中心聖句(ヨハネ738節)

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

4.本文「今年も御霊と共に」

 序)「新年の祭り」

 イスラエルの新年の祭りには『春説』と『秋説』があり、定説はないとされています。春説は、出エジプト122節より、過ぎ越し(小麦の収穫)と出エジプトの月が第一の月とされています。太陽暦では4月頃です。秋節は、出エジプト2316節より、収穫祭(ブドウの収穫)の第七の月で、太陽暦の九月から十月に新年が祝われていました。そして『贖罪の日』と『仮庵の祭り』と深い結びつきがあります。

 今年の新年礼拝はイエス様の『仮庵の祭り』からの教えから、「今年も御霊と共に」を2017年度の教会のスローガンにしたいと願いながらお話ししたいと思います。

 

本論)「今年も御霊と共に」(3744節)

  Ⅰ.「聖霊様のバプテスマの恵み」

 2016年度は使徒の働き18節から、「新しい力」による伝道を信仰のスローガンとしてきました。2017年度は聖霊のバプテスマの恵みに信頼して行いたいと願っています。中心聖句の(ヨハネ738節)「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」は、以下の五つの旧約聖書の成就だと考えられています。

 

  ①「聖霊の祝福は無料です。」(イザヤ551節)

「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。」 

 この御言葉は聖霊様の霊的祝福を象徴的に表しています。「水」も「穀物」も「ぶどう酒」も無料です。求められていることは「求めて出て来」るだけです。ただのものを買うとは矛盾のように思いますが、代価はすでにイエス様によって支払われているのです。私たちの人生、また家族、この教会の必要と救いについて大胆に神様に求めていきましょう。

 

  ②「聖霊の祝福は子孫にも注がれる」(イザヤ443節)

「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」

 聖霊様の祝福は信じる皆さんだけにとどまらないで、皆さんの子孫の子孫、その先まで注がれるものなのです。難しい肉親への伝道も、聖霊様に信頼して祈り続け、伝え続けましょう。

 

  ③「聖霊の祝福は完全なきよめです。」(ゼカリヤ131節)

その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」

 聖霊様のきよめの御業は完全です。続く2節の「立ち滅ぼす」は元々のことばは「切る」です。私たちの地上での歩みは肉の弱さを持ち、また教会も同じです。相田みつをの「人間だもの」です。ですから、肉の働きに頼っていてはすべてが徒労に終わるだけです。聖霊様の働きを信じて、悔い改めつつ本年もクリスチャンの歩みをしましょう。

 

 ④「聖霊の祝福はゆたかです。」(ゼカリヤ148節)

「エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。」

 聖霊様の祝福はゆたかです。「夏」は乾期で普通水量は減少してなくなりますが、聖霊様の祝福は永遠に絶えることはないのです。

 

 ⑤「聖霊の祝福は周囲の者を生かします」(エゼキエル479節)

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」

 

 聖霊様の祝福は周囲の者を生かします。8節の「海」とは塩分濃度の高い『死海』、別名『塩の海』のことです。死海の水には生命力がないといわれています。しかし、この川の水が流れ込むと、その場所の水は、生き生きと生命を保つことができるほどに変えられ、良くなるのです。聖霊のバプテスマを賜った皆さんのいるところはそのように人々が本当の意味で生きるようになるのです。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2017年1月8日(主日礼拝)

1.テキスト「イザヤ55章」

2.タイトル「聖霊は完全な救いに導く」(今年も御霊と共に)

3.中心聖句(ヨハネ551節)

「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」

4.本文「聖霊は完全な救いに導く」

 序)「今年も御霊と共に」

 2016年度は聖霊様を通していただく新しい力によって教会のすべての活動を進めましょうということでした。では、2017年度をどうするのか、2017年度も聖霊様と教会は一緒に歩んでいきたいと思います。それで「今年も御霊と共に」をスローガンとさせていただきたいと考えています。

 

本論)「聖霊は完全な救いに導く」

 Ⅰ.「救いを求めて出てこい」(1節)

 イザヤは不思議なことを言いますね。「さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。」と。当時、穀物もぶどう酒、乳は生活の必需品でした。ですから、2節にあるように、人々はそれらのものを得るために働いて、一日を費やしていたことでしょう。それが金のない者、金を払わないで「買え」と言われているのです。

しかし、イザヤは日々の食べ物のことを言っているわけではありません。イザヤは日常の必需品を例に出しながら、人間の罪の問題の解決を述べているのです。日常の品々はアルバイトしたりすれば、何とか手に入るでしょう。しかし、人間の罪の問題の解決は簡単ではありません。聖書は「罪から来る報酬は死です。」(ロマ623節)と警告しています。また注意すべきは、ズルをして「奪う」ことはできないのです。罪の問題からは決して逃げることはできないのです。聖書には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル927節)と言われています。

 ですから、イザヤは「渇いている者はみな、水を求めて出て来い。」と勧めているのです。罪の代価はイエス様が十字架で私たちの身代わりとなって支払われているのですから。

 

 Ⅱ「人の働きには限界がある」(23節)

 2節、3節でイザヤは罪からの救いという神の賜物が、人間の側でのどのような努力や善い行いによっても得られないことを例えています。救いに必要なことは、ただ「聞き従」うことだけです。特に「聞き従い」には繰り返し聞いて、聞いて、聞いてという意味の言葉で、これは救いということと、クリスチャン生活をよく言い表していると思います。聖書のみ言葉を信じて救われて終わりではなく、救いというものが、救われてからも聖書のみ言葉に聞いて聞いて聞いての生涯だということだと思います。

 すなわち、教会での礼拝は大切で欠かせないものであるということでしょう。

 

 Ⅲ「悔い改めの勧め」(67節)

 ですから、イザヤは6節、7節で悔い改めの勧めをしています。「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。」と先ほど紹介しました聖書の箇所にも人間にはいつか死ぬことが定められているとあります。ですから、悪しき道を離れて豊かに赦してくださる、神様のもとに帰られなければならないのです。

 

 Ⅳ「神の言葉は真実です」(1011節)

 イザヤ書は不思議な書です。なぜなら、語れば語るほど人々の思いがかたくなになり、神様から離れると神がイザヤに語るからです。

しかしその理由として、10節、11節はみ言葉が語られる時、語る人、聞く人の技や理性の働きや能力を越えて神の力が働かれ、必ず結果を生み出すと言っています。神学者も「み言葉を聞くときに、み言葉に伴って聖霊ご自身が働かれる」と言います。み言葉が語られるとき、いつでも、どこでも神様がお働きになられるのです。

 私たちの伝道も同じです。伝道しても救われる人どころか、興味を抱く人に出会うことも少ないと思います。しかし、教会で、また皆さんの口から、また心の中でみ言葉が語られる時、聖霊様が働かれるのです。そして罪びとは救われるために神様を信じるように導かれるのです。

ですから、私たちはただ信じて十字架の救いを伝え続けましょう。

 

今週の祈り

 聖霊様は完全な救いに導かれるお方です。私たちの教会の今年一年も聖霊様と共に歩んでまいりましょう。そして結果は主なる神様にお委ね致しましよう。

 ①人々が聖霊様に導かれて救いを求めに教会に来られるように。

 ②私たちも聖霊様と共に伝道の働きに熱心になれるように。

 ③神様のみ言葉が真実であることが体験できる一年となりますように。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2017年1月15日(主日礼拝)

1.テキスト 「イザヤ441節から5節」

2.タイトル 「御霊を信じて伝道しましょう」

3.中心聖句 (イザヤ443節)

「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」

4.本文 「御霊を信じて伝道しましょう」

序)「人の不信仰を越えて働かれる神の真実」

教会では信仰が大切とよく言われまし、牧師である私も信仰が大切と教えています。信仰があるなら物事がうまくいき、不信仰であるならば物事がうまくいかないとよく言われているように思います。いわゆる教会は信仰万能主義なのですね。確かに聖書を読むときにそのような教えがあることも事実でしょう。

しかし、聖書の教えはそれだけでしょうか。聖書は言います。『これらのことが起こる日までは、あなたは、ものが言えず、話せなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。』(ルカ120節)神様のみ旨ならば、不信仰な人にも時が来れば神の奇跡が訪れることがあるのです。また聖書はこのようにもいいます。『彼らのうちに不真実な者があったら、その不真実によって、神の真実が無に帰することになるでしょうか。』(ロマ 33節)と人のいかんにかかわらず、神様の御心が実現するのです。

私たちの信仰はどんなに意志の強い人でも、環境が変われば、立場が変われば、世間や教会内部の風が変われば、また周囲の人々の言葉によって影響を受けて、信仰が強められることも、弱められることもあると思います。特に理性はある程度は自分の考えを文書化するなどすれば揺るがないこともあるかもしれませんが、感情が揺さぶられる時、信じてはいるが態度や行動が伴わないこともあるのではないでしょうか。すなわち、クリスチャン人生や教会が人間の信仰のみによって建てられているならば、何の確かさもないといえるでしょう。

これは救いや伝道においても似た面があると思います。

 

本論)「御霊を信じて伝道しましょう」

Ⅰ.「救いとは御霊と信仰によって」

聖書は救いについてこのように言っています。『御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになった』

(第二テサロニケ 213節)

聖書は、人が救われるために必要なものは聖霊様のきよめの働きと真理であるイエス様の十字架への信仰だと言っています。

ですから、私たちの伝道は聖霊様と分担し合っていると言ってもよいかもしれません。救いは霊的なものですから、分担割合を数量的に図ることはできませんが、人をきよめる働きは聖霊様の働きが、そして人々がイエス様への信仰を持てるようにみ言葉を伝え、勧めるのは教会とクリスチャンの役割であり、責任と言えるでしょう。では聖霊様の働きはいつから始まるのでしょうか。

 

Ⅱ.「神の側の準備は整っています」

 そして新年礼拝でお話ししたように、仮庵の祭りで、イエス様は聖霊をすべてクリスチャンに人に与えると約束をされました。

『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』(ヨハネ738節)

その根拠として聖書自身がイエス様の言葉を解説しています。続く39節に。

『これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われた』

(ヨハネ7章39節)

 ヨハネの福音書を記したとされる十二弟子のひとりのヨハネはイエス様の言葉を記録する際に、自分自身も使徒の働き2章で体験した聖霊のバプテスマの体験を解説として入れたのでした。

 そして、この体験はヨハネだけではなく、クリスチャン一人ひとりもすでに霊的に体験していると聖書は教えています。

『聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。』

(Ⅰコリント123節)

しかしこの御言葉は注意して聞かなければいけない点があると思います。それは「イエスは主です」とは言葉を発することに意味があるのではなく、イエス様を自分の主として生きることに、イエス様を自分の王として生きることに意味があるのではないでしょうか。聖書は言います。

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられるわたしの父のみこころを行う者が入るのです。」

(マタイ7章21節)

 「イエスは主です」と聖霊様の関係について聖書は言います。

「この方にあってあなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことにより、約束の聖霊をもって証印を押されました。」(エペソ113節)

 聖霊様との関係は「信仰告白」「洗礼式」「聖餐式」「教会」「礼拝」「奉仕」「賛美」「祈り」との関係を大切にすることと関りがあると思います。それ無しに「イエスは主です」との言葉のみならば、何かむなしさを感じます。

 

Ⅲ.「御霊を信じて伝道した結果」

 イザヤは聖霊様が働くとき、どのようなことが起こると預言しているのでしょうか。

  ①第一に、救いを必要としている人に聖霊様が働くと約束されています。

 『わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ』

(イザヤ443節前半)

 私たち自身が救われた時を考えてみると、魂の渇きがあったのではないでしょうか。人生の躓き、健康への不安、夫婦関係や家族関係の苦しみや悲しみなどがあったのではないでしょうか。

しかし私たちにはどの人が今、救いを求めているか、救いを必要としているかはわかりません。しかし、聖霊様ご自身は人々の魂がどれだけ乾いているかをお知りなのです。ですから、私たちは様々な人に救いを述べ伝えましょう。私たちにはどの人が救われるかはわかりませんが、聖霊様は必要な人に働いて下さり、必ず救いに導いてくださるのですから。

 

②第二に、聖霊様は私たちの家族を救い、祝福されると約束されています。

『わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。』

(イザヤ443節後半)

 神様は私たちの家族を豊かに祝福するために聖霊様を注いでくださります。ですから、先に救われた私たちが働く番です。聖霊様が先駆けて救いの働きをしておられることを信じて機会をとらえて家族に伝道しましょう。また、私たちが家族の祝福を望む以上に神様は私たちの家族を愛し豊かに祝福されようとしておられることに期待しましょう。その家族への祝福について聖書は『彼らは、流れのほとりの柳の木のように』(イザヤ444節)と、その豊かさを例えています。

 

③第三に、聖霊様は神を知らない人々を救われると約束されています。

「ある者は『私は主(聖書の神)のもの』と言い、ある者はヤコブの名を名のり、ある者は手に『主(聖書の神)のもの』としるして、イスラエルの名を名のる。」(イザヤ445節)

 ある者とはイスラエルの契約の民以外の異邦人を指すといわれています。ここには四つの信仰告白があると神学者は言います。四つの信仰告白を私はこのように思います。聖霊様は信仰告白をして救われたノンクリスチャンを、旧約聖書の登場人物ヤコブを象徴する、行いによらずに契約の民、選びの民に加えられます。そして聖霊様は神の恵みの人、選ばれた人ヤコブの信仰告白的生き方に努める人を、新しい名を与えられる、イスラエルとされる姿を見る思いがします。まさに罪びとが救いからきよめへと聖霊様の働きを見る思いがします。

 

勧め「御霊を信じて伝道しましょう」

聖書は約束します。「わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。」(イザヤ443節)

 聖霊様は私たちの伝道に先駆けて、必ずお働きになられ、救いを必要としている乾いた魂をお導きになられると聖書が約束しているのです。難しい肉親への伝道も、また身近なノンクリスチャンへの伝道も葛西地域への伝道も聖霊様を信頼して祈り続け、伝え続けましょう。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2017年1月22日(主日礼拝)

1.テキスト 「ゼカリヤ13章」

2.タイトル 「聖霊の完全なきよめ」

3.中心聖句 (ゼカリヤ131節)

「その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。」

4.本文 「聖霊の完全なきよめ」

 序)異端「エホバの証人」とは

その異端的特徴、「三位一体の否定」、「十字架嫌悪」、「神名の誤解に基づく執着」、「終末論の歪」、「救いの階級制」、「輸血禁止」、「格闘技禁止」、「投票禁止」「新世界訳聖書」(詳細は別紙に記載)

 

本論)「聖霊の完全なきよめ」

 .「聖霊の泉が開かれ、完全なきよめが行われる」(16節)

  ①「完全なきよめは主の日、終末に行われる」

 ゼカリヤ13章を含む、ゼカリヤ12章から14章は「主の日」「世界の終末」をテーマとします。ですから世界の終末における裁きと救いについて預言されていると考えられ、その対象はイスラエルだけでなく、イスラエルから始まり全世界に及び、自然界さえも大きく変貌すると預言されています。13章はその中の「汚れの除去」としてエルサレムから始まる完全な回復、救いの完成を預言しています。

 すなわち、本日のテキストであるゼカリヤ13章は私たちのクリスチャンの完全な救い、聖化の完成、栄化とも言えますが、それは「主の日」と呼ばれる終末に神様からの働きかけによる、聖霊様の働きにより「きよめ」が完成されると約束されていると言えるのではないでしょうか。

 

  ②「その日に聖霊の働きにより完全なきよめは行われる」(12節)

 ここで「その日」とは「主の日」のことで「世界の終末」を意味していますが、聖霊様の泉は聖霊降臨のペンテコステの日に、始まっていると聖書は言います。

『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。(1節)すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。(2節)また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。(3節)』(使徒の働き213節)

 すなわち、聖書がいうところの終末は、ペンテコステの日からすでに開始され、現代は聖書的には終末時代のただなかというところでしょう。

そして聖霊様は私たちの心の奥底から、いのちの川の泉となって「罪」と「汚れ」(偶像・異端の教え)の救いと解決、きよめが開始されると約束されています。それであるので、罪や偶像、異端との戦いの完全な勝利には聖霊様の働きが重要となります。続く2節には、「汚れ」と呼ばれる異端と偶像の完全な排除が約束されています。「立ち滅ぼす」とは、元々の言葉で「切る」で、それらのものが完全に根絶すると神様は約束します。ですから、人間的な働きだけでそれらのものに戦いを挑むだけであると、徒労に終わることを肝に銘じましょう。神様の約束、私たちのうちに宿る聖霊様の働きかけなくして勝利はないのです。しかし、私たちは聖霊様の働きにより勝利を味合うことができるのです。イエス様の約束がペンテコステで成就したのですから。

 

 Ⅱ.「完全なきよめは剣の後に来る」

  ①「主の牧者の苦難」(7節)

 ここでの剣が何を意味しているかは、聖書は私たちに具体的に教えてくれていません。しかし、何らかの意味での苦難がクリスチャンたちに及ぶと聖書は預言しています。ここでの「牧者」が誰を意味するかについて聖書解釈が分かれるところですが、「わたしの牧者」、「わたしの仲間」とあるので、またある神学者は「私の分身」と訳せると言っていますので、私はクリスチャンや牧師を意味していると思います。

ここでの大切な点は、神様の裁きは教会の外から、不信人な人々から始まるのではなく、聖書は神様のさばきは教会から始まるといいます。ですから、私たちがすることは教会の外の人々を裁くことではなく、まず自分たちを聖書から問い、そして教会の外の人々を救うことが使命と考えるべきでしょう。

 

  ②「主のしもべたちの苦難と完成」(89節)

 「三分の一が残る」とは象徴的な数字で、神様によって救われる人がわずかであることを意味し、イエス様の十字架を信じる信仰、また聖霊様の働きへの信仰という非常に単純な信仰が、逆に人間には非常に信じがたく困難なものになると聖書は言っています。

 そして9節で「練る」とは金属を溶かしてカスを除く作業。「ためす」とは試練。これらから、地上の生涯で神様からの試練に合うとき、それは苦しみや、悲しみを伴うかもしれないけれども、神様により近づくチャンスです。

ただ、試練に打ち勝つ秘訣は「彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える」ことです。試練に人間的な力や知識、訓練で立ち向かうなら、私たちには敗北しかないのです。イエス様も荒野で悪魔の試みを受けられた時、聖書のみ言葉で勝利されました。ですから神様のみ名が象徴する、神様の憐れみと恵みを求めましょう。それでなくては試練に打ち勝つことはできないと聖書は教えています。

 その先に、神様との真実な関係の成立、救いの完成、聖化の完成、栄化が約束されているのです。そのことを聖書はこのように言っています。

『わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。』

 

勧め「聖霊の完全なきよめ」

 ①主の日、終末の時代はペンテコステの日から始まっているのです。

②クリスチャンの完成は人間の働きではなく、神様の働きへの信仰です。

③偶像や異端との戦いは、聖霊様の働きなくして完全な勝利なしです。

④主の日、神様の裁きは教会から始まり、世界に広がります。

 ⑤神様からの試練の時、主のみ名を呼び求めて、主の憐れみと恵みで勝利しましょう。それ以外に

 勝利はないのです。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会、異端についての調べ(エホバの証人)

 ある方から、『エホバの証人』と聖書、また教会との関わりを質問されましたので、多くの正統的福音派のキリスト教会が支持する考え方を『新キリスト教辞典(いのちのことば社)』(正統的信仰の神学論文集とも言えるもの)から調べて記しています。

 

Ⅰ.その歴史

 創設者ラッセル、その主張は、1874年秋にすでにキリストは不可視的に再臨し、1914年に「異邦人の時に終わり」が来ると預言した。

 ラッセルの死後、ラザフォードが第二代会長となり、彼のもとに組織は確立する。

 日本では、明石順三が渡米後入信、1926年帰国後日本支部を設立。戦時中弾圧され、戦後釈放されるが米国本部の戦時中の姿勢を批判し除名される。1949年、別組織により日本支部設立。

 

Ⅱ.その特色

 1.教義について

  ・三位一体の否定

 異端を一口言うと、「キリスト教の基本教理から逸脱した教え」となるが、具体的には使徒信条などの基本信条否定として現れる。御子と聖霊の神性を認めない。キリストは被造物であり、聖霊は「神の力」とする。既成教会はサタンの組織と考える。

 

  ・十字架嫌悪

 キリストの神性を理解できないラッセルには贖罪は理解できず、従ってその教えは結局「わざによる救い」という律法主義から脱していない。その贖罪信仰の歪が端的に十字架嫌悪として現れる。またイエスがかけられたのは十字架ではなく杭だと主張。既成教会は十字架を偶像にしていると批判する。

 

  ・神名の誤解に基づく執着

 エホバという神名は正しい読み方ではない。ヘブル語旧約聖書で子音「YHWH」を記すのみであったのを、便宜上「eoa」の三つの母音を補ってエホバと読んだが、今日では「YaHWeH」とすべきであるとされています。組織内ではこだわることが神(組織)への忠誠のしるしとされます。

 

  ・終末論の歪

 ラッセルは現在の体験として救いを確信できないため、終末時における救いを期待する結果、終末における預言に関心が集中し、再臨の年月の予測計算に熱中した。そして1914年と算出し、それが第一次世界大戦の起きた年となったため、ラッセルの教えは権威あるものとされた。しかし1915年の世界の終わりは外れる。また1975年の世の終わりの説も外れる。

 

  ・救いの階級制

 ものみの塔の教えに従い、その組織に忠誠を誓っても、それだけでは救いを保証されない。本部に完全に服従することが救いの条件です。この構造は永遠の世界にも続き、組織の支配者階級は天国に住み、被支配者階級は地上の楽園に被支配者として住む。

 

 2.実践的教について

  ・輸血禁止

 輸血は神の意に背く恐ろしい罪とする。そのことの故の死を殉教の死と美化する。献血も禁止。

 

  ・格闘技拒否

 格闘技的なスポーツも罪悪視する。

 

  ・投票拒否

 クリスチャンは政治的な事柄にかかわるなと教える。

 

  ・その他

 誕生日の祝いは偶像礼拝に通じると禁止。

 

  ・不信者との離婚の是認

 布教方法としては、家庭を訪問し「ご一緒に聖書を学びませんか」と誘う形をとる。したがってその対象は主婦が多い。その結果夫の知らぬ間に妻が信者となり反対すると離婚もやむなしと是認する。

 

 3.聖書について

 この派では最初、一般のキリスト教会と同じ聖書を使用していた。しかし一般の(正統的)教会の教えとあまりにも異なる自分たちの主張の根拠として、1950年ころ、「新世界訳」と称する聖書を刊行するようになった。この聖書は翻訳にはなはだ問題が多く、特に重大なのは、英訳以外の各国語訳がすべて「英訳」を底本とする「重訳」であるという事実です。それはアメリカ本部の教えから各国支部が逸脱することを厳重に警戒し、防止することに他ならない。このことは聖書そのものの教えからの逸脱よりも、本部の教えからの逸脱のほうが危険とされていることの証拠と言える。 

 

 また、私の出身教団である『(宗)日本イエス・キリスト教団』宣教局の異端カルト関係のページも参考にされるとよいかもしれません。緑字のところをクリックすると(宗)日本イエス・キリスト教団公式ページに行きます。 


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2017年1月29日(主日礼拝)

1.テキスト 「ゼカリヤ1418

2.タイトル 「豊かな教会と信仰生活」

3.中心聖句  (ゼカリヤ148節)

「エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。」

4.本文「豊かな教会と信仰生活」

序)「豊かさを追い求めて」

 

 聖書は『豊かな教会と信仰生活』を約束しています。しかし、この豊かさという言葉は様々に解釈されてきた言葉ではないでしょうか。多くの方が豊かさというと昭和の高度成長期を思い起こすのではないでしょうか。去年、NHKの百分de名著という番組で『苦海浄土』という著書を紹介し、昭和という時代、日本史の近代が人々に与えた豊かさとは何かと問うていました。『苦海浄土』では熊本で現在は肥料の会社として知られる会社が、高度成長期にはプラスックの会社として熊本県の地域経済を支え、大学の首席クラスでないと入社できないといわれる超優良企業でしたが、反面、水俣病の公害被害の原因企業として多くの犠牲者を生み出したことを紹介していました。そしてその著書から、日本史の近代における『豊かさ』、敗戦後の焼け野原から奇跡的な立ち上がりを見せた日本の昭和という時代の日本の呼称、経済大国日本、技術大国日本、輸出大国日本の豊かさはすべての人々にとって希望と幸せをもたらせはしなかった事実を告発していました。

 聖書の約束する豊かさとはどのような豊かさでしょうか。

 

本文)「豊かな教会と信仰生活」

 

 Ⅰ.「忍耐は神様の豊かさの入り口」(1・2節)

 1節の『見よ。主の日が来る』から始まる内容は、捕囚前に活躍した預言者ヨエル、アモスの預言と同じで、『主の日』は人々にとって恐るべき日となり、私たちは耐え忍ぶことが求められると聖書は言います。

『主の日は偉大で、非常に恐ろしい。だれがこの日に耐えられよう。』

(ヨエル211節)

『ああ。主の日を待ち望む者。主の日はあなたがたにとっていったい何になる。それはやみであって、光ではない。』(アモス518節)

また、1節の『主の日』は直訳すると「主のために日」となります。その強調点は「主のため」です。神学者は「人間にとって都合の良いような形の救いではない」と言います。すでに敵は内部に侵入していて、分捕りものを配分するほどに圧倒的な勝利を収めていると、聖書は、教会とクリスチャンの敵が勝利する世界を預言します。

 さらに続く2節では、神様が「すべての国々を集めて」、世界的規模の反エルサレム同盟軍を導き、エルサレムを裁かれ、その結果エルサレム落城は神様のご計画の中にあると聖書は言っています。このエルサレム落城を象徴的にとらえるならば、キリストの教会がこの世の反キリストの勢力に打ち負かされることが『主の日』における神様のご計画の一部となっているということでしょうか。

 聖書のこのような記述は私たちが受け入れにくい箇所ではないでしょうか。しかし、聖書は言います。

 『愛する者たち。あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練を、何か思いがけないことが起こったかのように驚き怪しむことなく、むしろ、キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。』

(Ⅰペテロ41213節)

 教会とクリスチャンは神様から試練を与えられて、その本心がどこにあるのかを神様から問われる必要があるのです。その試練の中、人生の苦しみや悲しみを通ることがあるかもしれませんが、その先には神様の豊かな祝福が待っていると聖書は約束します。ですから、試練の時に、教会とクリスチャンが耐え忍ぶ忍耐の時は神様からの豊かさへの入り口なのだと信じましょう。

 私たちは弱い存在ですから、信仰が揺さぶられて不信仰に傾くこともあるでしょう。しかしパウロは『患難さえも喜んでいます』と聖書は言います。

『そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。』(ロマ534節)

どんなことが私たちに起ころうとも、神様の約束の言葉を信じましょう。苦しいところを通る時も、悲しみや痛みの涙を流しながらの人生の歩みの時も、「忍耐は神様の豊かさの入り口」と神様の約束の言葉を信じましょう。

 

 Ⅱ.「人間の行き詰まりこそ神様の機会、チャンス」(35節)

 教会とクリスチャンの忍耐は、神様の人間の歴史への介入によって報われるのです。聖書はイスラエルの人々が絶対的な危機の時に、神様の介入によって救われ勝利する歴史を語っています。その代表的な戦いをあげるならば、紅海のエジプト軍壊滅(出エジプト14章)、ベラカの谷の勝利(Ⅱ歴代誌20章)、セナケリブ軍の全滅(Ⅱ列王記19章)があります。神学者は「人間の行き詰まりこそ常に神の機会である」と言います。だから、試練の時、教会とクリスチャンは神様から勝利がもたらされるまで、信仰を持って耐え忍ぶことができるのです。私たちにも試練が私たちの人生と、この教会に及ぶかもしれませんが、聖書のみ言葉を握って、神様の勝利を信じて耐え忍びましょう。

 聖書はきよめられた教会とクリスチャンの行動によって、神の御心にかなう世界が実現するとは言っていません。人が神様の前に、万策尽きて両手をあげ、神様のみ名を呼び求める時、全知全能なる神様が人間の歴史に介入されて勝利を収められると聖書は約束します。

 しかし、教会とクリスチャンが何もしなくてもよいと聖書は言っていません。聖書は「万物の終わり」に際して言っています。

『それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。』(Ⅰペテロ41011節)

すなわち、教会とクリスチャンは、結果は神様が最善にされると信じて、日々神様からいただいた賜物で奉仕し、伝道し続ければよいということでしょう。自分たちで勝手に結果を想像して、悲しんだり嘆いたりして主の働きをやめてしまい、神様の御心を悲しませることがないようにしたいですね。例え、一年後に私たちと教会に行き詰る事態が起こると予想されても、それが一か月後でも、明日でも、神様のみ言葉を握り、結果を主なる神様にゆだねて歩み続けましょう。

 

 Ⅲ.「主からの豊かさは人の物差しでは測れない」(6~8節)

 『主の日』、主の再臨と共に始まる新しい世界は、人の物差しでは測れないと聖書は言います。そのことを聖書は7節で「これは主に知られている」と言います。67節の内容は、主なる神様にしかわからない、全く今の私たちの理性では理解も想像もできない世界が始まると聖書はいいます。その新しい世界において神様の豊かな恵みがエルサレムから湧き上がり全世界に至ると約束します。

『その日には、エルサレムから湧き水が流れ出て、その半分は東の海に、他の半分は西の海に流れ、夏にも冬にも、それは流れる。』(ゼカリヤ148節)

 この恵みはヨハネ7章でイエス様がお約束され、使徒の働き2章で成就したペンテコステの日から始まっているのです。教会とクリスチャンは御霊様の働きによる、この豊かな神様からの恵みを期待しましょう。主からの豊かさは人の物差しでは測れないと聖書が言っていることを単純に信じましょう。自分たちは力があるとかないとか。能力があるとかないとか。自信があるとかないとか。過去に成功したかしないとか。教会が大きいか小さいとかは関係ないと聖書は私たちに教えているのではないでしょうか。ただ、今、私たちができることを、できる範囲で、み言葉を握って、結果は神様に任せ、信仰を持って、主のために、罪のために失われた魂を救うためにできる奉仕をしましょう。

 

勧め「豊かな教会と信仰生活」

①「忍耐は神様の豊かさの入り口」です。教会とクリスチャンは神様から試練を与えられ、人生の苦しみや悲しみを通ることがあるかもしれません。しかし教会とクリスチャンの忍耐の時は神様からの豊かさへの入り口なのだと信じましょう。

 

②「人間の行き詰まりこそ神様の機会でありチャンス」。教会とクリスチャンは、結果は神様が最善にされると信じて、日々神様からいただいた賜物で奉仕し、伝道し続けましょう。

 

 

「主からの豊かさは人の物差しでは測れない」。教会とクリスチャンは御霊様の働きによる、この豊かな神様からの恵みを期待しましょう。主からの豊かさは人の物差しでは測れないと聖書が言っていることを単純に信じましょう。