福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2017年3月)

以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2017年3月5日(主日礼拝)

1.テキスト「使徒の働き41から4節」

2.タイトル「一粒の麦として生きる」

3.中心聖句(ヨハネ1224節)

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ1224節)。

4.本文「一粒の麦として生きる」

序)「はじめに」

 今日のお話は、「一粒の麦として生きる」です。ペテロとヨハネは福音を語ったがゆえに逮捕されました。しかし、福音のために何かを捨てるとしても、その何倍もの祝福があることを本日の聖書は教えてくれています。

ですから、私たちの人生の中でも福音のゆえに何かを失うものがあったとしても恐れないでください。なぜなら、聖書はこのように言うからです。「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ1224節)。

イエス様も一粒の麦として十字架にかけられ、そして復活されて神様の栄光を現されました。イエス様は私たちの先駆けとして手本を見せられました。しかし、これはISの自爆攻撃や戦中の特攻攻撃とは全く異なります。特攻は死ぬために生きるのであり、キリスト教の殉教や一粒の麦としての生き方は神様の御前で真に生きるために死ぬのです。

 

本論)「一粒の麦として生きる」(1から4節)

.「ただ福音を述べ伝えた」(1節)

 ペテロとヨハネは、大勢に人々に対してイエス様のことを証していました。なぜ、大勢の人々が集まってきたのでしょうか。それは美しの門で施しを求めていた男の足が主の御名による奇跡で癒されたからでした。

ペテロは人々に何を証したのでしようか。二節にはこうあります。「ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えている」と。ペテロはイエス様の十字架と復活を話していました。それは奇跡を起こしたペテロとヨハネのことでもなく、また足の不自由な男のことでもなく、ただ奇跡は主の御名により起こったこと。すなわち、ただ福音を述べ伝えたのでした。

 私たちもペテロのように主イエス様の十字架と復活を述べ伝えましょう。そうしないと、牧師の説教や話も、また皆さんの貴重な証も、世間話や自分のお話で終わってしまうからです。

 

 Ⅱ.「一粒の麦として生きる」(2から3節)

しかし、多くの群衆が集まっていると聞いて『祭司』、『宮の守衛長』、『サドカイ人』たちが集まってきました。この三者はそれぞれの立場でペテロたちの話を聞いていたと思われます。

『祭司』にとっては、ペテロの話す、イスラエルの罪とイエスがメシアであるとの主張は受け入れがたいものだったでしょう。イエス様は祭司長の中庭で裁判を受けて有罪となり、そして十字架刑にかける許しを受けるためにローマの総督ピラトのもとに送られたのですから。

また、『宮の守衛長』は祭司に次ぎ地位がありました。彼らは神殿の宮での、今でいうところの警察か警備員で、群衆が集まることでの通行の障害や、時々起こっていた暴動への警戒のために、ペテロとヨハネを監視していたことでしょう。

しかし、一番ペテロとヨハネを許せないと感じたのは『サドカイ人』でした。『サドカイ人』は貴族や祭司の家柄と関係するイスラエルの支配者階級者でした。彼らは2節にあるように「イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て」たのでした。なぜなら、『サドカイ人』は死者の復活はないと信じていたからでした。

また、それのみか、彼らは多くの者が神と人を取り次ぐ祭司で、祭司としての地位の高い者も少なくなかったのですが、政治的に当時の世界の覇者ローマに従属して利益を得る現実主義者であり、支配者であるローマが嫌悪するような、宗教的・政治的運動に反対する人々でした。それでイエス様が生きておられる間もイエス様の邪魔をしたり、質問の形で失言を誘ったりしていました。そのためイエス様の十字架と復活を話しているペテロとヨハネはとても許しておくことができずに逮捕してしまいます。

一粒の麦として生きるには、覚悟が必要です。イエス様がそうであったように、この世は正しい者、神様の側に立つ者の邪魔をするからです。

 

.「地に落ちて実を結ぶ」

ペテロとヨハネは福音を述べ伝えたことにより逮捕されてしまいます。

 しかし、主の御名への信仰が働かれて奇跡が起こる時、それは一人の男の足の癒しにとどまりません。その足の不自由だった男は神様を賛美し、喜び踊りながらペテロとヨハネと共に神殿に入ったように、多くの人が救われたのでした。男の人だけで五千人が救われたとありますから、女性と子供を入れるとさらに多くの人が救われたと想像されます。ペテロとヨハネは逮捕されましたが、多くの罪のゆえに失われた魂を滅びから救うことができたのでした。

まさに聖書に言うように「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ1224節)でした。

この御言葉は直接は、イエス様の十字架での栄光を指示していますが、イエス様に従うクリスチャンの生きる道でもあると思いませんか。皆さんもイエス様のために『死んで生きる』、イエス様のために『捨てて生きる』、イエス様のために『私たちの人生を献げて生きる』。私たちも一粒の麦として喜んで地に落ちようではありませんか。

 

勧め)「一粒の麦として生きる」

 「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。」(ヨハネ1224節)。

 私たちも人生の上で何かを失ったり、捨てたりする場面に直面するかもしれません。しかし、それが『福音』の故であるなら、また、神様に従っているクリスチャンに起こることであるなら、何もおそれることはないのです。たとえそれが自分自身や家族の死や損失についてであったとしても、神様は復活のいのちを与えてくださるお方です。そして失ったものの何十倍も何千倍もの祝福で私たちにお返ししてくださるお方ですから。


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葛西福音キリスト教会説教2017年3月12日(主日礼拝)

1.テキスト「使徒の働き45から12節」

2.タイトル「この方以外に救いはない」

3.中心聖句(使徒の働き412節)

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

4.本文「この方以外に救いはない」

序)「聖霊の満たしの力」

 地域伝道においても、また家族伝道においても困難を覚えることが多いものではないでしょうか。そのことについて『聖霊に満たされている人はどういう場合にあいましても、その心きよくしてキリストを顕すことを得る』と神学者は言います。確かに、使徒の働き241節からは『教会の健全な成長』、3章では未信者の回心、本日のテキストの4章での迫害の中での平安と勝利を得ることができました。まさに、イエス様がお約束された使徒の働き18節のおことば通りに実現したものでした。

 ですから、先の神学者は『聖霊に満たされることはただ礼拝の時のためばかりでなく、あるいは説教するときのためばかりではありません。平成の時のため、またどんな場合の時のためでもあります」と。

 私たちの側に希望がなくても大丈夫なのです。神の側、聖書の側に平安と喜びと勝利が約束されているなら、それでいいのです。

 

本論)「この方以外に救いはない」

.「神の敵、教会の敵の力」(5から7節)

 教会とクリスチャンは、この世から攻撃される場合がありますが、聖書は敵の攻撃よりも神の救いに目を向けるべきと勧めています。しかし、現実は教会とクリスチャンの心が折れるような攻撃にさらされることもあると思います。

 実際に、ペテロとヨハネの裁判でも敵の攻撃は巧妙でした。ペテロとヨハネを裁くためにエルサレムに集まってきた人々は71人からなるユダヤ民族の最高裁判機関、サンヘドリンでした。そして主イエス様を裁き、十字架に向かわしたのもサンヘドリンでした。ですから、二人の弟子たちも覚悟していたと思います。

 しかし、71人の考え方は異なり、2節の二人の逮捕理由「ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て」ではパリサイ人の議員から無罪と宣言される恐れもありました。それで悪知恵をめぐらし、7節のように逮捕理由を変更して多くの議員が有罪と宣言するようにします。これは現在でいうならば警察での「別件逮捕」なのか。もしくは検察官と裁判官の「別件審理」と言えるものでしょう。調べると「別件逮捕」は良く行われているそうです。その正当性の根拠は「刑事起訴規則143条の3」で明らかだそうです。恐ろしいことですが。でもペテロとヨハネの場合はおそらく「別件審理」でしょう。裁判所での審理の段階で検察官と裁判官が審理内容を変更したものだと思われます。現在の日本ではありえないですが。

 そのような今の日本ではありえない状況でペテロとヨハネは裁かれようとしていました。以前、サンヘドリンはそのような自分たちに都合のいい審理でイエス様を十字架に送りました。

 教会とクリスチャンにとってこのような正当な権利の主張もできずに不利な判決を下されることもあろうかと思います。

 

Ⅱ「聖霊の満たしの力」(8から10節)

しかし、彼らはピンチの時に頼るべきお方を知っていたので、71人の裁判の議員を恐れることはなかったでしょう。8節に「そのとき、ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言った。」と堂々とした態度で反論の口火を切ります。3.11の東日本大震災では政府が想定外という言葉を言い続けた印象がありますが、私たちの主イエス様には想定外はないのです。イエス様は弟子たちにこのような事態を想定して言われました。『人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。事実、あなたがたを殺す者がみな、そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う時が来ます。』(ヨハネ162節)。そして聖霊様が『罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。』(ヨハネ168節)と。イエス様はあらかじめ想定され、「聖霊」様の助けをお約束してくださったのです。

 この主イエスの言葉通り、ペテロは助け主の聖霊様に満たされて堂々と主イエスの十字架と復活の証をします。そして私たちの祈りもそうですが、主の御名への信仰が奇跡を起こすと大胆に語ったのです。イエスは言われました。『あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。』(ヨハネ1413節)。

 ですから、私たちも大胆に伝道し、祈りましょう。私たちに力がなく、敵の力が私たちを上回るとしても、絶望するような状況でも、病気の時にも私たちの主イエス様の約束は必ず私たちを救うことになるからです。

 

.「この方以外に救いはない」(1112節)

 ですから、私たちにはこのお方以外に救いはないとの確信を持ちましょう。聖書は言います。『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。』(使徒の働き412節)

 教会とクリスチャンの敵の力がどれほど大きくても、またその悪知恵がどれほど恐ろしいものであったとしても、『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。』と。さあ、ご一緒に復唱しましょう。

 

『この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。』(使徒の働き412節)


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葛西福音キリスト教会説教2017年3月19日(主日礼拝)

葛西福音キリスト教会説教20170319

1.テキスト 「使徒の働き413から22節」

2.タイトル 「大胆に生きる」

3.中心聖句 (使徒の働き413節)

「彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いた。」

4.本文

 序)「大胆な冒険家」

 本日、319日、暗黒大陸と呼ばれるアフリカ大陸を世界で始めて横断した冒険家の誕生日ということを皆さんは知っておられますか。その人はデイヴィッド・リヴィングストンという名前で19世紀に活躍したイギリス人です。彼は医者兼宣教師としてアフリカに上陸します。そしてアフリカでは、黒人が奴隷商人たちによってモノや動物のように売り買いされていることを知り、それをやめさせるためにアフリカの奥地と行き来できるルートを開発し、農産物などの人間以外のものを売り買いできるように努めました。何度か死ぬような病気にも襲われます。その彼は「私に仕事をあきらめさせるものなど、この世にはない」という言葉を残しています。何度も死に直面するような事態に遭遇しながら、あきらめずにアフリカの黒人のために働きました。その情熱はどこから湧いて出たのでしようか。私は彼が宣教師であったことからおそらくみ言葉への信仰であったのではなかったかと思います。

 聖書は言います。『見よ。わたしはきょう、あなたを、全国に、ユダの王たち、首長たち、祭司たち、この国の人々に対して、城壁のある町、鉄の柱、青銅の城壁とした。だから、彼らがあなたと戦っても、あなたには勝てない。わたしがあなたとともにいて、──【主】の御告げ──あなたを救い出すからだ。』(エレミヤ11819節)

 私たちも本日のテキストから信仰によってさまざまな困難や苦難にあっても大胆に生きる術を教えていただきましょう。

 

本論)「大胆に生きる」

.「無学な普通の人でも大胆に生きる」(13から14節)

 先日説教の中で、イエスの十字架と復活がなければ、牧師の説教も皆様の貴重な証も「自分の話」か「世間話」で終わってしまうと語りましたが、皆さんはどの様に聞かれたでしょうか。もしかしたら、皆さんの証をしようという尊い気持ちに水をかけてしまったかなと、私は恐れています。また、自分は聖書の専門の教育も受けていないからとしり込みされはしないかと、私は心配しています。

 しかし、本日のテキストで、あのイエスの逮捕の時に蜘蛛の子を散らすように逃げ去り、そして復活のイエスと出会う前はユダヤ人を恐れて家に閉じこもっておった弟子であったのに、13節で『彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いた』のです。彼らは聖書についての専門教育も、宗教指導、また演説する教育も受けていない無学な人で、普通の人であったにもかかわらず、大胆に語ることができていたのでした。その理由は明白です。それは8節の「ペテロは聖霊に満たされて」いたからでした。聖霊様が神の証人と変えられたのです。まさに、使徒の働き18節の「私の証人となる」なのです。英語聖書の大人版では「証人とする」、子供版では「証人とするだろう」で、その人本人の能力や経験を超えて、聖霊による新しい力により神の証人と変えられたのです。

 ですから、私たちも聖霊に満たされて大胆に神の証人として語り、そして生きようではないでしょうか。サンヘドリンの議員たちは二人の前では癒された人もその場に居たので、14節「返すことばもなかった」のです。

 

.「神の栄光の前では、人の知恵は無力」(15から18節)

 しかし、サンヘドリンの71人の議員は民の指導者、長老、学者と当時のイスラエルの最高権威者たちであったので、このまま何も処罰しないまま、ペテロとヨハネを釈放したのでは面目が立たなくなる恐れがありました。それで、二人を議会から退場させて協議しますが、結局癒された男がその場に居て、そしてこの話がエルサレム中に広がってはもう何のごまかしもできません。イエス様の復活の時はお金を兵士に渡してごまかしましたが。それで結局、これ以上のこの話が広まらないように18節『イエスの名によって語ったり教えたりしてはならない、と命じた。』だけでした。

 

.「脅されても大胆に生きる」(19から22節)

しかし、彼らは聖霊に満たされていたので、大胆にも1920節で『神に聞き従うより、あなたがたに聞き従うほうが、神の前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分の見たこと、また聞いたことを、話さないわけにはいきません。』。と言い放ちます。それでもサンヘドリンの議員たちはただ、脅しを繰り返すことしかできませんでした。

 

勧め「大胆に生きる」

 

 聖霊様に満たされたペテロとヨハネに、私たちは何を学ぶのでしようか。それは大胆にクリスチャンとして生きることができることだと思います。勉強や訓練を否定はしませんが、そのままのあなたが聖霊様に満たされる時、神様の証人として用いていただけるのです。また、これは伝道の働きのみならず、人生のどのような場面でも大胆に生きていける術だと思います。あなたがいつも何かの不安にさいなまれているのでしたら、イエス様を信じてください。そうすれば、人生の晴れの日でも、雨の日、また嵐の日であったとしても、どんな一日があなたに訪れたとしても、信じる者に与えられる聖霊の働きによって、心に平安が、また強い忍耐が、そしてその一日から喜びを見つける心をいただくことができることでしよう。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2017年3月26日(主日礼拝)

.テキスト「使徒の働き4章23から3節」

.タイトル「聖霊の働きを求める祈り」

.中心聖句(使徒の働き4章31節)

「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(使徒の働き431節)

.本文「聖霊の働きを求める祈り」

 序)「使徒の働きを学ぶ意味」

 ある神学者は『使徒の働き』を「伝道のハンドブック」と呼んでいます。この書は約30年間の宣教の記録です。しかし、その宣教の範囲は地の果てに至り、救われて教会の群れに連なる人は一日で何千人、その約30年間の累計記録はありませんが、何万人か、それ以上と思われます。そしてその神学者は、私たちが聖霊に満たされた者であり、またみ言葉を通して主イエス様に従順に従う者であるならば、私たちの生涯にも同じことが起こりうると勧めます。

 私たちの求めるもの、それは「彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。」(使徒の働き431節)。そのような祈りの教会です。また、そのような祈りのクリスチャン人生です。この世の人々は目に見えるものによって結果を出そうと必死です。しかしそのような中、ある人々は疲れ果て、会社や学校のレールから外れて脱線し、ある人々は自ら命を絶つ人もいるでしょう。私たちクリスチャンや教会でさえもそのような考え方や生き方では息切れし、信仰生活、教会生活、伝道に疲れ果ててしまうかもしれません。ですから、本日のタイトル「聖霊の働きを求める祈り」から私たちは学ぶ必要があるのではないでしょうか。

 

本論)「聖霊の働きを求める祈り」

 先ほどの神学者は「聖霊の働きを求める祈り」を今日のテキストからいくつかの項目に分けて教えています。

 Ⅰ.「心を合わせること」(24節)

「これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい」

 第一に、これはその当時の教会の持っていた尊いものでした。使徒の働きには「心を一つに」が4章のほかに、教会の特徴としても2章で記されています。また、「心を合わせ」は最初のペンテコステの奇跡を待ち望む祈りとして1章に記されています。教会ではこの「心を合わせる」ことは大切なのです。

しかし、愛し合った夫婦でさえ喧嘩をすることもある中で、様々な人が集まる教会の中での一致というものは大変難しいと思います。そのためには私たちは主イエス様の生涯での謙遜さを学びたいと願います。聖書もいいます。『何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。』(ピリピ23節)

 

 Ⅱ.「神の存在とその御力により頼むこと」(24節)

 「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」

 次に、彼らはペテロとヨハネが何の罰も受けずに脅しを受けただけで釈放されて二人が帰ってきたとき、この奇跡が(使徒の働き3章12節)「自分の力とか信仰深さとかによって」ではないと知っていたので、万物を造り、万物を支配し、万物の上に力をもって臨まれる神様を信仰告白します。私たちも表面上の人の動きの背後で働かれる力ある神様を信じ、より頼みましょう。

 

 Ⅲ.「聖書のみ言葉」(25節)

 『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。』

 弟子たちは旧約聖書のことばを握って祈りました。彼らは神様の戦いの詩篇と呼ばれる詩篇二篇を握って祈りました。彼らは二人の無事釈放を詩篇2篇の成就、神の勝利とほめたたえたのです。この世の支配者や人々はこの世の力をもって戦います。しかし、神様は人間の力と人間の迫害をあざ笑います。詩篇2篇4節で「天の御座に着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。」とあるようにです。

ですから、神様と共に働く教会とクリスチャンも神様と共に、信仰によって、迫害の時にも笑うことができる、そのような信仰の余裕を持つことができるのです。

 

 Ⅳ.「この戦いが自分のものではなく、神の戦いであると知ること」(26節)

26節、「地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。」は詩篇2篇2節のみ言葉です。この言葉の通りイエス様は十字架に送られ、またペテロとヨハネも捕らえられました。しかし先の詩篇2篇5節には、「ここに主は、怒りをもって彼らに告げ、燃える怒りで彼らを恐れおののかせる。」とあります。イエス様は復活されました。そして聖霊に満たされたペテロとヨハネは無事に釈放されました。私たちも伝道の戦いを人間の戦いととらえるならば、疲れ果てるかもしれませんが、神様の戦いだと信じる時、勝利を得ることができるのです。聖書は言います。「主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」(イザヤ4031節)信じましょう。

 

 Ⅴ.「神様のご計画は必ず成就すると信じること」(28節)

28節、「あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。」。聖書も言います。「わたしの口から出るわたしのことばも、むなしく、わたしのところに帰っては来ない。必ず、わたしの望む事を成し遂げ、わたしの言い送った事を成功させる。」(イザヤ5511節)私たちの確信は神の御言葉にかかっているのです。私たちの力や持っているものではないのです。

 

 Ⅵ.「大胆に伝道することを願う」(29節)

29節「主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください」。神学者は「弟子たちは迫害の激しくなる中、自分の利益、また自分の幸福、自分の安泰を捨てて、神様の栄光が表れることを願っていました。まことに「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ633節)なのですね。

 

 Ⅶ.「イエスに栄光を帰すことを願う」(33節)

 33節「使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。」私たちの教会の目的であり、ゴールはここにあるのです。

 

 神学者は、神様はこのような祈りをささげているクリスチャンと教会に必ず使徒の働きにあるような助け主、聖霊様の働きを期待できるといいます。ですから、教会とクリスチャンはこの霊的な勝利の祈り、「聖霊の働きを求める祈り」をもって伝道しましよう。