福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2016年9月)


以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教2016年9月4日

1.    テキスト 「第二テモテ1318節」

2.    タイトル 「聖霊によるリバイバル」

3.    中心聖句 (第二テモテ167節)

「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」

4.    本文「聖霊によるリバイバル」

序)「テモテの弱さ」

パウロは『信仰によって生み出した子、テモテ』と聖書に記すほどにテモテに期待を掛けていました。そしてパウロは自らが宣教によって生じた教会をテモテに任せてきました。しかし、パウロはテモテに信仰のチャレンジを与えます。それは「聖霊によるリバイバル」です。(第二テモテ167節)「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」と。

テモテには霊的なチャレンジが必要でした。テモテには宣教をするうえで弱さを持っていたからでした。テモテの弱さは「臆病」でした。テモテの「臆病」な心の前ではテモテに幾分かの肉の強みも無力でした。それゆえ、パウロは「聖霊によるリバイバル」のチャレンジを手紙の冒頭で勧めていると思われます。

 

本論)「聖霊によるリバイバル」

 1.「テモテの持つ肉の強み」

 Ⅰ「涙を流すことができる伝道者であった」

 まず、パウロは第一にテモテの流した涙を称えています。この涙についてある学者は、使徒の働き2037節でのエペソ教会長老と殉教をも覚悟したパウロとの別れのシーンで、「みなは声をあげて泣き、パウロの首を抱いて幾度も口づけ」の時にテモテもその場にいたのではという説があります。伝道者は人々の気持ちに寄り添い、共感することができなければ伝道することができないのではないでしょうか。相手の気持ちや言葉を聞くことができて初めて私たちの伝える神の愛のことばを相手が聞くことができるのではないでしょうか。

 さらに、使徒の働き2019節の「私は謙遜の限りを尽くし、涙をもって、またユダヤ人の陰謀によりわが身にふりかかる数々の試練の中で、主に仕えました」という牧会者パウロの涙と同じ涙を流す、成長したテモテの涙ではないかと言われています。伝道とはむなしいものだと聖書はいいますが、有名なところでは「水の中にパンを投げる」、「一粒の麦、地に落ちて」との聖書の言葉があります。キリストご自身も十字架でいのちを私たちのために捨てられて、私たちは救われました。捨てることには痛みが伴いますが、パウロは、涙を流すほどに痛みを感じながら伝道者として生きる成長したテモテを見たのかもしれません。

 

 Ⅱ「テモテの純粋な信仰」

 テモテの母、ユニケはギリシャ人と結婚した(使徒の働き161節)ことからキリスト教徒と考えられており、テモテはキリスト者家庭の教育と訓練の中で信仰が与えられた典型的な例と言えると考えられています。またパウロはその信仰が「宿る」と表現することについて、聖書学者は「信仰は観念の遊戯ではなく、全人格の応答である」と述べています。テモテの信仰が、知識の信仰にとどまることなく、心に主の福音の宿る信仰者として、信仰が態度に表われていたのだと称えています。

 

 Ⅲ「それでも足りないものがある」

 しかし、それでもテモテがこれから神の福音を伝えていくには不十分で、注意しなければならない点があると、パウロは言っています。「あなたのうちに与えられた神の賜物を、再び燃え立たせてください。神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です。」。それは本日のタイトルである「聖霊によるリバイバル」の勧めです。テモテはパウロの手紙を読むと「心が弱く」「臆病」であったと思われます。これは不信仰とは言えなくでも積極的な信仰者の姿とは言えないでしょう。それでパウロは霊的なチャレンジをテモテに与えたのではないでしょうか。

 

 2.「パウロの勧める聖霊のリバイバル」

 Ⅰ「聖霊とは力の霊です。」

   創造の力(創世記12節)

創世記12節には、「神の霊が水の上を動いていた。」とあり、天地創造の奇跡に聖霊様が関わっておられます。聖霊様は神としてその全能の力をもって私たちの必要にこたえてくださる下さるお方です。私たちも旧約聖書のヨブのように、神の行われる自然の創造性に満ちた神秘を前にして沈黙するばかりではありませんか。ですから、神が私たちの人生に、また教会に行われる御業に期待しましょう。

 

   きよめる力

聖書は言います。(ローマ15章16節)「異邦人を、聖霊によって聖なるものとされた、神に受け入れられる供え物とするためです。」聖霊は異邦人であってもきよめる力をお持ちです。また、この世に対して聖霊は聖別を行われます。(ヨハネ16章8節)「この方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。」この聖霊のきよめについて、バプテスマのヨハネのことばがよく説明していると思います。「私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けています…その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。」(マタイ311節)。ヨハネのバプテスマは悔い改めの記しでした。確かに悔い改めは良いことですが、しかし、人の悔い改めだけでは、猿の反省に近いように思います。聖霊のバプテスマなくして人は罪の前では無力で弱い存在ではないでしょうか。

テモテには人を救うことはできませんし、私たちも同じです。しかし、聖霊のお働きを祈り求めるなら、聖霊様が働かれるなら、私たち自身と私たちが愛し救われるために祈っている家族や友人を神のきよめの恵みに必ず導いてくださるのです。

 

Ⅱ「聖霊とは愛の霊です。」

パウロは不思議な挨拶をします。「御霊の愛によって切にお願いします。」(使徒の働き1530節)。また別の個所ではクリスチャンのきよめられた生活の力の根源を「御霊の実は、愛、喜び、平安」(ガラテヤ522節)と聖書は教えます。パウロは、自分自身の愛、その人間の愛の限界に対して、御霊の愛の無限の広さ深さを知っていたからこそ、このような挨拶をしたのではないでしょうか。パウロは肉の弱さを自覚し、そして肉に見切りをつけて聖霊に満たされることによるクリスチャンの新しい生き方にすべてをかけていたのでしょう。その結果、多くの異邦人が神の愛を信じて救われ、教会が立っていきました。私たちの神への愛も、肉親への愛も、隣人愛も尊いですが、御霊の愛によるのでなければこの世にパウロのような宣教の奇跡は起こせないのではないでしょうか。

 

Ⅲ「聖霊とは慎みの霊です。」

 

慎みとは自制のことです。先ほどのガラテヤ522節の御霊の実の一つにもあげられていますが、(ヨハネ1426節)「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」このように、聖霊様が働かれる時、私たちのみ言葉を中心とした教会のあらゆる働きは知的な学習で終わることはないのです。聖霊様の働きにより、私たちひとり一人は全人格的な応答に導かれるのです。パウロが告白するように「私が生きているのではない、キリストが生きているのです」との生き方に私たちは導き入れられるのです。私たちはただ自分を捨てて従うだけなのです。


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葛西福音キリスト教会説教2016年9月11日

1.テキスト 「ローマ812から17節」

2.中心聖句 (ローマ814節)

「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」

3.タイトル 「新しい生き方」

4.本文 「新しい生き方」

 序)「自動車教習所と自動運転」

 皆さんはゴールド免許というものを知っていますか。それは無事故、無違反の人だけに与えられる勲章のようなものです。私も持ちたいのですが、中々難しいもので、いつも何か軽微な違反で残念ながら青色の免許証です。ほとんどの人は自動車教習所で合格し、免許証をいただいたのですね。それでも事故や違反が起こるっていうのは、どうしてでしょう。相田みつをさんの言葉を借りれば、「人間だもの」でしょうか。皆さんはどうですか。

しかし、最近のニュースで自動運転の技術開発が進み、シンガポールでは自動運転のタクシーが数年先に登場するとか。これだと無事故、無違反に大きく近づくのではないでしょうか。人間の過失や操作ミス、また感情の乱れも事故につながり、最近では加齢による事故も発生しています。ですから自動運転の技術が発達し、人間の運転をサポート、さらに進んで完全自動運転となるならば、素晴らしい車と人の社会が見えてきそうですね。

 聖書が言う、新しい生き方とは、この自動運転技術のようなものに近いのではないかと思います。人はただ自動運転の働きを生かすため、自動運転のスイッチを入れ、そして自動運転の働きを信じて任せることが求められます。パウロはローマ書の8章でそのことを、聖霊の働きを記し、その新しい生き方ができると述べています。

 

本論)「新しい生き方」

.「御霊に従って生きる」(1213節)

 ここには、神を信じた人の新しい生き方が教えられています。それは「御霊に従って生きる」ことです。12節を直接日本語にすると、「こういうわけで、兄弟たち。私たちは負債を負っているのですが、それは肉に従って生きることを、肉に対してではありません。」。これでは意味が分からないので、皆さんのお手持ちの聖書は少し、手を入れて訳されています。ここでの負債とは正しく生きる責任とも言い換えることができると思います。

 すなわち、正しく生きる責任を人間の努力や修養などで果たしていくのではないといっているのです。何か無責任な発言にも聞こえますが、13節を読むと、聖書は人間が罪深く弱い存在だから、環境や周囲の人間関係によって、再び悪い道に容易に戻っていき、結局、神の裁きにあうことになると言うのです。ここで「死ぬ」というのは、肉体の死の先の神の裁きにおいてのことです。

 ですから、聖霊に導かれ、また満たされているならば、自動運転のように人間は自分自身の罪深さや弱さから守られると教えているのです。

 

.「御霊に導かれる人は、神の子ども」(14から17節)

 それゆえ御霊に導かれる人は神様の子どもとされます。イエスの十字架を信じ、聖霊を賜ったクリスチャンは神様の養子とされる恵みが与えられています。そして、ここで聖書が問うているのは、そのためには聖霊に導かれているかどうかをクリスチャンに問いかけているのです。

 ではどのようにして「御霊に導かれる」のでしょうか。ある牧師は、そのためには三つの原則があると教えられていました。

 

①原則1「全く神様に明け渡した心」が必要

 私たちは神様の導きを求めるとき、常にまず自らの意志を神様に任せきることが求められます。たとえば車の安全性が自動運転で高まったとしても、運転者が自動運転のスイッチを入れなければ、その効果は当然期待できないことと同じと思います。

しかし、神様に明け渡した心というのは何か強制されての、そうするべきだとか、そうしなければいけないという心からは生じることはありません。またそのように人が装っても神様はお喜びになられません。

聖書は言います。「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(詩篇259節)

ここでの『貧しさ』とは金銭的なことよりも神様の前での謙遜な心のことです。神様は謙遜な心から生じる明け渡した心をお喜びになられます。人は神様の導きを求めるとき、自らの罪深さと無知を認め、自らの力と才能のむなしさを深く自覚していなければならないのです。エジプトの学問を学んだモーセは人間として脂がのった40歳で何もできずにエジプトを追われます。そしてさらに荒野での40年の間、むなしく羊を飼うだけの生活でした。そのような荒野の生活でおそらく謙遜にされたモーセは、神様の臨在される燃える芝と出会い、また素直に履物を脱いで神様に近づいたがゆえに神様に用いられ、力ある神の御言葉をいただくことができました。私たちも謙遜を学ぶならば、特に礼儀としての謙遜ではなく、神様の御前での心からの自覚を伴う謙遜を学ぶならば、神様の導きをいただくことができるのです。

 

②原則2「神様に従うこと」

 第2に、私たちが神様の導きに従うつもりがなければ、神様はそれをお与えになりません。なぜなら、そうすることはかえって私たちの罪を重くすることだからです。聖書の預言者の言葉にこうあります。「私たちは、知ろう。主を知ることを切に追い求めよう。」(ホセア63節)

預言者ホセアは、北イスラエルが神様の恵みによりダビデ、ソロモン王朝時代にも匹敵する平和、経済的、物質的繁栄の豊かさを与えられましたが、それがあだになり宗教的、道徳的、社会的に腐敗し、神様の御心を損ないました。それゆえの神様の裁きにより国が弱体化した後、預言者アモスが神様に帰るように呼びかけました。「主を知ることを切に追い求めよう」と。ですから私たちにもそのような気持ちが神様の導きを求めるためには必要なのです。

 

③原則3「神様の導きに信頼すること」

 最後に私たちは目には見えなくても神様が私たちと共におられ、聖書の御言葉を通して私たちを導いておられることを心から信じることが大切です。しかし、これには難しい面もあります。地上の親の子どもへの愛も、子供にとってはうれしいことと受け取ることができないこともあるでしょう。例えば学校の勉強とか、食べ物の好き嫌いとか、礼儀マナーなど、子供の成長に必要なことも子供にはそれを理解することができないこともあるでしょう。おそらく大人になってそれらが大切なことに気付くのでしょう。同じように神様の私たちへの愛にも同じことが言える場合があると思います。ですから、時には祈りが聞かれず、さらに自分の計画とは逆の状況に動いていると感じることがあるとしても『神様の導きに信頼すること』は大切です。

 

祈り「新しい生き方をするために」

 聖書の教える『新しい生き方』は、私たちの人生に安心と安全を約束します。そして私たちは『新しい生き方』をするため『御霊なる神様に従う』ことが大切なのです。そのために以下の3つ原則のことを祈り求めましょう。

①原則1「全く神様に明け渡した心」のために、謙遜な心を求めましょう。

②原則2「神様に従うこと」ができるように祈りましょう。

③原則3「神様の導きに信頼すること」ができるように祈りましょう。


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葛西福音キリスト教会説教2016年9月18日

1.テキスト 「マタイ1125から30節」

2.タイトル 「神が与える平安」

3.中心聖句 (マタイ1128節)

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」

4.本文「神が与える平安」

 序)「この世のものでない平安と聖霊の慰めにより成長した教会」

 現代社会は心の安らぐ時を持つのが難しいと思われませんか。通勤電車の込み具合、ひどいものですが、あれは奴隷船の人間の密度に匹敵するとは、よく聞く話です。最近、情報もあふれ気味でテレビ時代でさえ持て余してしまうレベルに思えましたが、最近のIT技術の発達で皆さんは津波のような情報の波に流されてはいませんか。このように、自分を失うか、見失ってしまうような社会の中、皆さんは、平安な心持で過ごすことができていますか。聖書は聖霊様が私たちに平安を与えると教えています。

また、どこの教会でも『教会成長』は永遠の課題だと思いますが、教会の成長についても、新共同訳の聖書の(使徒の働き931節)「こうして、教会はユダヤ、ガリラヤ、サマリヤの全地方で平和を保ち、主を畏れ、聖霊の慰めを受け、基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」とあり、教会の成長が「聖霊の慰めを受け基礎が固まって発展し、信者の数が増えていった。」と解説されています。また新改訳聖書では、同じ個所を「聖霊に励まされて前進し続けたので、信者の数がふえて行った。」と言っています。すなわち二つの聖書の訳は、聖霊様の働きを別の表現で表していますが、教会の成長と聖霊様の継続的働きの密接な関係を教えています。

今日は、聖霊の働きの一つである「平安」についてみてまいりましょう。

 

本論)「神が与える平安」

.「二つの平安」(どのような平安か)

 ①「神との平安」

 聖霊様が与える平安には二つあると、ある先生がおっしゃっていました。それは「神との平安」と「神の平安」です。まず、「神との平安」ですが、マタイ1128節「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」から教えられます。

聖霊様は悩んでいる魂をイエス様の十字架に導かれます。その導きに従い、イエス様のもとへ行くときに受ける安息が第一の安息です。神様は私たちに良い心、良心を与えられました。ですから、罪を犯すとき、この良心が痛むのです。神様からの安全装置ともいえるでしょう。でも、何度も罪を犯すとこの安全装置も効きにくくなります。それで罪は犯せば犯すほど、罪の呵責もなくなり、どんどん大胆に大きな罪を犯すようになるのでしょうか。しかし、聖書は言います。ヘブル927節には「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」とあります。人は自分の犯した罪から決して逃げられないのです。その償いを求められるのです。

 ですから、イエス様を信じて、神様との平安を得るため、罪の重荷をイエス様の十字架のもとにおろしてください。

 

 ②「神の平安」

 もう一つの「神の平安」とは何か。マタイ1129節、「わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」第二の平安は、自分の意志を神様に明け渡し、十分に御霊様の訓練を受けたうえで、経験されるものと言われています。大切なことは二つ、「わたしのくびきを負って」と「私から学びなさい」でしょう。私とは当然、神様のことですね。表現がきついですが、くびきとは牛や馬がその進む方向を勝手に向かず、飼い主の意志に従わせるものです。私から学ぶとは、神様のことば聖書のことでしょう。

 聖霊様の働きにより与えられる神様の平安は、クリスチャンにとって深い経験です。私たちが神様に明け渡し、主ご自身が心に内住されることによって与えられるイエス様の心そのものなのです。

 イエス様の心とはどのような心か。イエス様は弟子たちと嵐の湖の中、狼狽する弟子たちに対し落ち着かれていました。それは十字架を前に、裁きの場においてイエス様が表された平安です。そのイエス様の心が私たちに分け与えられるのです。これは私たちの心の荒波のように落ち着きのない思いや、恐れや、動揺に代わる深い静かな永遠の安息です。これは聖霊様の特別な賜物というよりも、御霊様ご自身が私たちの内に親しく宿られることの恵みでしょう。

 

勧め)「神が与えられる平安」

 

 私たちは、この御霊様の安息に入っているでしょうか。この不安と変化に満ちた世界において、この平安に勝るどのような代替品があるでしょうか。この世の人々は自分たちの憂慮と恐怖を克服し心を静めるため、様々な麻酔剤を求めてきました。しかし、代替品では人々の心は静まることはないでしょう。御霊様の働きを信じて、イエス様が約束された安息を私たちもいただきましょう。


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葛西福音キリスト教会説教2016年9月25日

1.テキスト 「ヨハネ1331から141節」

2.タイトル 「神が与える喜び」

3.中心聖句 (ヨハネ1511節)

「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

4.本文「神が与える喜び」

本論)「神が与える喜び」

 ①「心を騒がすな」

イエス様は言われました。ヨハネ141節、 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」と。何が弟子たちの心を騒がしていたのか。それはイエス様の死の予感があったからです。ヨハネ131節から3節、『さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。悪魔はすでにシモンの子イスカリオテ・ユダの心に、イエスを売ろうとする思いを入れていたが、イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が神から出て神に行くことを知られ、』と。イエス様ご自身はゲッセマネの祈りでご自分が人類の罪の贖いのために十字架で死ななければならないことを知っておられました。

おそらく、それを弟子たちも感じていたのでしょう。ヨハネ1336節・37節『シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」イエスは答えられた。「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます。」。 ペテロはイエスに言った。「主よ。なぜ今はあなたについて行くことができないのですか。あなたのためにはいのちも捨てます。」』。このように、イエス様の死の予感に対して一番弟子のペテロは、イエス様と一緒に殉教の覚悟があると、誇示して言い張ります。

しかし、ペテロの弱さを知るイエス様は、ヨハネ1338節、『イエスは答えられた。「わたしのためにはいのちも捨てる、と言うのですか。まことに、まことに、あなたに告げます。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」』。

このように、私たちも何か不安になったりするときに、雰囲気や自分の落ち込んだ気持ちとは真逆な行動や感情を表現しようとして、そのあとさらに落ち込んだりしてはいませんでしょうか。勇気を持つこと、またプラス思考は大切ですが、神様の前では強がりは必要ないのです。なぜなら、神様は私たちが弱い存在であることを知っておられるからです。あのパウロも告白しています。第Ⅱコリント129節、『しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。』

クリスチャンは神様の前では、無理に強がる必要はないのです。恐れることもあるでしょう。震えることもあるでしょう。胃が痛くなるような出来事に会うこともあるでしょう。

しかし、「キリストの力が」私たちをおおって下さる望みがあるのです。そのみ言葉に対する信仰を神様からいただけるように祈りましょう。

ですから、涙や嗚咽が私たちから出ることがあっても信仰を捨ててはいけません。

 

 ②「神の喜び」

 イエス様は神の喜びを私たちに与えられると約束されました。ヨハネ1511節、「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。」

 イエス様は私たちの悩み悲しみ、苦しみを受け止めてくださり、わたしたちのイエス様の喜びを与えてくださいます。他にも人生には様々な困難や苦しみがありますが、聖書はその一つ一つに対処するみ言葉を与えてくださいます。

 例えば、居場所がないと感じる人はいませんか。イエス様はクリスチャンがたとえ地上の世界で居場所をなくしても、天に居場所を備えると約束されました。(ヨハネ143節)「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」

 また、自分の奉仕や家族・友人への伝道に自信をなくしている人はいませんか。イエス様のような働き以上の働きができるようにしてくださると約束されました。(ヨハネ1412節)「 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行うわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います。わたしが父のもとに行くからです。」

 また、主のみ名によって求め祈るなら、主ご自身がそれを果たしてくださると約束されました。(ヨハネ1413節)。「またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。」

また、「もう一人の助け主」「聖霊様」が私たちとどんな時も、いつまでも一緒にいてくださる約束もいただきました。(ヨハネ1416節)。「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。」

また平安についても。(ヨハネ1427節)「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」

他にもたくさんお約束をしてくださりました。

 そのお約束があるからクリスチャンはどんな苦しい時でも「心を騒がさずに」静かな平安な心で、神様を信じて喜びが尽きてしまうことがないのです。

 ある先生はこうも言っておられます。「この喜びは周囲の事情や、その人本来の気質などに全くかかわりのないものである。」。これは「神の喜びで、常に枯れない泉である。」と。そして、この喜びの秘訣は、「御霊に占領され、御霊に満ち溢れる心でいなければならない」と言います。ガラテヤ522節には、「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」とありますが、まさに聖霊様から泉のように私たちの内側から湧き上がる神様の恵みの約束なのです。

 

勧め)「神が与える喜び」

 聖書はいつも私たちにチャレンジを与えます。そして同時に喜びの約束も与えてくださっています。ピリピ44節、「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」。また第Ⅰテサニケ51618節、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

しかし、それはテストのような共通一次の足切や振るい落とすためのものではないのです。神様は聖書の約束、イエス様の約束の力を試してごらん、また味わってごらん、体験してごらんと勧めているのです。

 

この一週間も皆さんが神様の喜びにあって、過ごされますようにお祈りしております。