福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2016年8月)


以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル「神のことばで生きる」2016年8月3日(主日礼拝)

1.テキスト 「申命記8章1~9節」

2.タイトル 「神のことばで生きる」

3.中心聖句 (申命記8章3節)

「人はパンだけで生きるのではない、人は【主】の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」

4.本文「神のことばで生きる」

 序)なぜ、クリスチャンにも苦しみや困難があるのか。

 皆さんは、疑問に思わないでしょうか。神を信じていない人に起こる困難な状況が、神を信じている私たちにも同じように起こるとき、「神様、なぜ、私にこんなことが」と思わないでしょうか。東日本大震災でも教会が流され、そこの信徒さんや先生が召されました。なぜ、なのか。同じことが起こるのなら、神を信じなくても良いではないかと、そのような考えが起こってもしょうがない、そのような思いが、頭の中に生じることもあるでしょう。これはヨブ記のテーマにもつながりますが、なぜ、クリスチャンの地上の生涯でこの世の人と同じ苦しみや悲しみが生じることを神が許されておられるのか。そのところをを聖書から見てまいりましょう。

 

本論)「神のことばで生きる」

①神が人に与える試練の目的「パンのむなしさを知る」(2・3・5節)

 ・苦しみ、飢えを通して。

 第1、カナンの地偵察(民数記14章1節)全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

 神のことばを握って生きることが求められた。でも、彼らにはできませんでした。そもそも神は彼らの肉の力を頼りとしていませんでしたが。後のエリコの城攻略、ヨルダン川の川渡りで明らか。

 第2は指導者モーセも試されました。(民数記202)ところが会衆のためには水がなかったので、彼らは集まってモーセとアロンとに逆らった。民はモーセと争って言った。「ああ、私たちの兄弟たちが【主】の前で死んだとき、私たちも死んでいたのなら。なぜ、あなたがたは【主】の集会をこの荒野に引き入れて、私たちと、私たちの家畜をここで死なせようとするのか。なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから上らせて、この悪い所に引き入れたのか。ここは穀物も、いちじくも、ぶどうも、ざくろも育つような所ではない。そのうえ、飲み水さえない。」モーセとアロンは集会の前から去り、会見の天幕の入口に行ってひれ伏した。すると【主】の栄光が彼らに現れた。【主】はモーセに告げて仰せられた。「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」そこでモーセは、主が彼に命じられたとおりに、【主】の前から杖を取った。そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」

モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」モーセとアロンは約束の地に入ることはできなくなりました。なぜ神は「杖をとれ」とおっしゃったのか。意地悪いとわたしは思いますが、主はモーセの失敗にも関わらず、水を湧き出されました。

 

 ・心のうちにあるものを神が知るため。

 それは、パンに頼って生きているか、神のことばに頼っているかを問うためなのです。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3章3節)

 クリスチャン人生が御霊で始まったのなら、御霊様が完成させてくださるのです。恵みで始まったのなら、恵みが完成に至らしてくださるのです。ただ、主を信じ、御言葉を握って、自分を捨て、従うものが勝利をいただけるのです。

 試練で大切なのは肉に頼り、才能や知識、団結力よりも、御霊によりすがり、神の知恵と助けに一番にすがることなのです。肉の働きは神の働きの中で最高に用いられるのです。ですから、試練で人はそのところを問われるのです。

 

②しかし、神は試練の間も私たちを養われる方(4節)

先ほどのモーセの失敗にもかかわらず、イスラエルの人々は水を飲むことができました。そればかりか、荒野の旅路は神に信頼どころか、神に逆らうばかりでした。それでも神はイスラエルの人々を荒野で養われました。

 それは神がどこまでも憐れみ深くあられる方で、神の怒りを買う民であったが、主は肉を山ほど、提供されます。その理由は、地上の生涯を生きる間、クリスチャンは完全な者ではなく、多くは「追い求める者」だからです。聖書は言います。(Ⅰコリント141節「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(Ⅱテモテ222節「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(ヘブル1214)すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」神は私たちがそのようなものであるのを知っておられるのです。ですから、(10)のように神を賛美しなければならないのです。

 

まとめ 「神のことばで生きる」

 

 本日はクリスチャン生涯の試練について聖書から学んでまいりました。その理由は、神が私たちの心のうちを、本心を知りたいからだと聖書は語っています。わたし達は、思わぬことが起こったときに、戸惑い、悩むこともあるかもしれませんが、「神の言葉で生きる」者でありましょう。神はあなたを愛しておられますから。


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル「神のことばで生きる」(2016.8.14)主日礼拝説教

1.  中心聖句 (出エジプト記1414節)

「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」

 

2.  本文 「神のことばで生きる」

序)「目的と手段の混同」

 ある人が本の中で、日本語の「どうして」という言葉には、HOW(どんな方法で、いかにして)とWHY(どういう理由で、なにゆえに)のような区別がないのではないかと述べていました。そして多くの場合「どうして」と尋ねる時は、主に前者のHOWの意味で語っていると分析していました。そのことから日本人は、あまり物や人、物事の既にあるものに対し、その存在意義(本質)について疑問を抱かない精神構造をしているとおっしゃっていました。そういえば、本屋でも物事のノウハウ(方法論)の本が、物事の本質やその存在意義を問うような硬い哲学書などより多いような気がします。私も「硬い」などというところから見れば、標準的な日本人なのかもしれません。

 しかし、それで人生を生きていけるのでしょうか。アンパンマン・マーチでも歌われていますが、「何のために生まれて、何をして生きるのか、答えられないなんて、そんなのはいやだ」と。HOWでは手段しか提供しませんから、たとえ目標や目的を達成することができても、人生の達成感や満足感、そのような幸せを感じる要素を実感できるのでしょうか。また、それはクリスチャンも教会も同じではないでしょうか。聖書を通じて神のことばからWHY(神の御心)を聴かなければ、ノウハウを追いかけるだけでは、クリスチャン人生も教会の宣教や成長が喜びもなく、ただ計画に追われて数字とにらめっこして一喜一憂するだけの、そのような思いで、ただ教会とこの世を往復する。それでいいのでしょうか。本日は、サウロの生き方から、「神のことばで生きる」大切さについて聖書から学ばさせていただきましょう。

 

テーマ)「神のことばで生きる」

.「神のことばで王となったサウル王」

  神のことばの第一のしるし(第一サムエル記927から102節)

第一のしるしは神のことばの預言です。サムエルは神のことばを伝えます。それはサウルが神の代理者として王となることと、これからサウルに起こる不思議な出来事の預言でした。

「サムエルはサウルに言った。『この若い者に、私たちより先に行くように言ってください。若い者が先に行ったら、あなたは、ここにしばらくとどまってください。神のことばをお聞かせしますから。」サムエルは油のつぼを取ってサウルの頭にそそぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自身のものである民の君主として、あなたに油をそそがれたではありませんか。」

神の選民の、イスラエルの王、ユダヤ人の最初の王となったサウルは神のことばにより王と選ばれたのでした。それはサウルやサウルの家族の野心ではなく、イスラエルの裁きつかさサムエルの図ったことでもありませんでした。ただ、神のみことばが指し示す、神の御心がサウルを王と選んだのでした。

また、サムエル自身も神のことばと、それに対する全人格的な応答で今の彼となりました。

「わたしは、わたしの心と思いの中で事を行う忠実な祭司を、わたしのために起こそう。わたしは彼のために長く続く家を建てよう。彼は、いつまでもわたしに油そそがれた者の前を歩むであろう。」(Ⅰサムエル 235節)

 

  第二のしるし(第一サムエル記1034節)

「あなたがそこからなお進んで、タボルの樫の木のところまで来ると、そこでベテルの神のもとに上って行く三人の人に会います。ひとりは子やぎ三頭を持ち、ひとりは丸型のパン三つを持ち、ひとりはぶどう酒の皮袋一つを持っています。 彼らはあなたに安否を尋ね、あなたにパンを二つくれます。あなたは彼らの手から受け取りなさい。」

第二のしるしは、神にささげる供え物の一部をサウルが受け取ることにより、神の代理者となることでした。この行為は祭司のアロンの家系、また裁き司のサムエルに準ずるものでした。

 

  第三のしるし(第一サムエル記106から8節)

「主の霊があなたの上に激しく下ると、あなたも彼らといっしょに預言して、あなたは新しい人に変えられます。このしるしがあなたに起こったら、手当たりしだいに何でもしなさい。神があなたとともにおられるからです。あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私がなすべきことを教えます。」

 

 このように、サウルは神のことばで王と指名され、かつその内面まで神の霊が激しく下り新しい人に変えられました。サロルの王への道は人の思いやノウハウではなく、まったく神のことばに示される神の摂理でした。このことについて神学者は、積極的に自分を売り込み、チャンスをつかむことに明け暮れる現代人には、逆にチャンスにつかまれているような驚きが失われているといいます。神のことばと、それに対する全人格的応答に努めるクリスチャンにも、同じような驚きの人生でなくてはならないといいます。神のことばと、それに対する全人格的応答に努める信仰生活とは日々、チャンスにつかまれる人生なのです。

 

.「自分の言葉で生きるサウル王とその結末」

 しかし、そのような神の言葉で王となったサウルも、サムエルからの神のことばではなく、自分の言葉で生きてしまいます。そしてその結末、それが本日のテキストです。

   サウル王の言葉の裏側にある思い。

サウルの言葉の裏側にある理由はいくつかあると思いますが、その中から三つを取り上げると。

・第一の理由、それはサムエルの約束違反でした。「サウルは、サムエルが定めた日によって、七日間待ったが、サムエルはギルガルに来なかった。」(第一サムエル記138節)。

 この第一の理由は、サウルの言い分が通るように思う人も多いのではないかと思います。神のことばを預かるサムエルの側に約束違反があったこと。

 

・第二の理由、それは兵の逃亡でした。「サウルはイスラエルから三千人を選んだ。」(第一サムエル記132節)。この兵が「サウルが彼とともにいる民を数えると、おおよそ六百人であった。」(第一サムエル記1315節)と大幅に減少するという理由です。これ以上サムエルの到着を待っていると部隊の士気が下がり、ますます逃亡する兵が増えることでしょう。ここは早く祭壇にささげものをして戦闘を準備開始しなければいけないと考えたこと。

 

・第三の理由、ペリシテの兵力の強大さです。「ペリシテ人もイスラエル人と戦うために集まった。戦車三万、騎兵六千、それに海辺の砂のように多い民であった」(第一サムエル記135節)。当時、鉄の加工はペリシテ人が得意であり、この後に聖書にも紹介されますがイスラエルの国には鍛冶の技術はなく、ある戦いではサウロ王とその子ヨナタンだけが剣を持つという所持する武器だけでも差があり、それに戦車と騎兵という兵力差から、第二の理由と重なりますが、祭壇にささげものをして神の戦いであると宣言する必要があると考えたこと。

 

 しかし、冷静に考えると、第二、第三の理由は合理的ではありませんね。臆病風に吹かれたイスラエル兵と強力な武器と圧倒的な数のペリシテ軍とでは、到底勝ち目が最初からなかったといえるでしょう。かろうじて信仰的理由の神頼みがサウルの気持ちであったとしても、サムエルを待つという神のことばに反して祭壇を築いても、神は顧みられることはなかったでしょう。

 

   神のことばの示す神の御心

それはサムエルを通じて語られた神の御心でした。「あなたは私より先にギルガルに下りなさい。私も全焼のいけにえと和解のいけにえとをささげるために、あなたのところへ下って行きます。あなたは私が着くまで七日間、そこで待たなければなりません。私がなすべきことを教えます。」(第一サムエル記108節)。この「私がなすべきことを教えます。」が神の御心でした。神学者は、神への信頼が人間的現実への不安と動揺を克服できなかったことによる罪だといいます。エジプト軍と紅海に挟まれたイスラエルの人々を救ったのは、この神のことばでした。「主があなたがたのために戦われる。あなたがたは黙っていなければならない。」(出エジプト記1414節)。求められるのは「人の言葉」ではなく「神のことば」です。

ここで、聖書は人と家の運命を決定づけるのは状況や他人の動きではなく、絶対者である神とその人との関係が、確実にその人と家の運命を動かしていくと教えています。それゆえに、神のことばと、そのことばに対する全人格的応答が大切なのです。

サウルの第一の理由にはおそらくサウルの正当性が幾分かあるように、私には思えます。しかし、だからと言ってサウルが、神のことばに反して行動していいということではないという例がここから学べるように思えます。神のことばに仕える人が過ちを犯すと、それは神のみ名を汚すことにもなり、普通の人よりも罪深いといえるでしょう。しかし、神に仕える預言者や祭司、現代の教会では牧師、宣教師、伝道者、奉仕者としてのクリスチャンは地上での生涯で果たして完全な人であることができるのでしょうか。私はこのように考えます。地上での教会は、その奉仕者も含めて様々な誤りを犯す可能性があり、その場合に神は必ずそのことを指摘され、神ご自身が働かれ、教会と人々の悔い改めを求められることでしょう。しかし、そのような事実があるからといって聖書のことばが神のことばではないとは言えないし、人が聖書のことばを軽んじる理由にはできないということではないかと思います。

 

3.  まとめ「神のことばで生きる」

  私たちは自分の言葉で生きる者ではなく、「神のことばで生きる」者でありたいと願います。またこの葛西福音キリスト教会も「神のことばで」進む教会でありたいと願います。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教2016年8月21日(主日礼拝)

1.テキスト 「ガラテヤ516から25節」

2.タイトル 「聖霊によって生きる」

3.中心聖句 「もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。」(ガラテヤ525節)

4.本文「聖霊によって生きる」

 はじめに)「聖霊 (・・? 」

 本日のテーマは「聖霊によって生きる」です。聖霊というと何かイメージがわかないかもしれません。何か特殊で高尚なことで、一般のクリスチャンには縁の遠いことだとお思いかもしれません。またクリスチャンでない人には関係ない話だと思われるかもしれません。でも、どっこい、聖霊はあなたの人生を豊かにされるお方です。あなたの悲しみや不安、自分の性格、人間関係の悩みなどを解決されるお方です。また、クリスチャンの陥る不信仰や祈り、日々の生活が賛美で満たされない思いなども。このように言うといかがわしい万能薬のように聞こえますが、神の言葉である聖書は聖霊があなたを完成させる、また完全な人間に変えると約束されています。クリスチャンのもつ神のきよさもその一つです。聖霊は、旧約聖書の初めから新約聖書の終わりまで父なる神と御子イエスとともに聖書の中心的な存在のお方です。今日はそのお方のお話です。

では、聖霊によって生きるとはどのようなことなのか。ある牧師は、このように教えておられます。第一にそれは、御霊によって生まれることだと。そして第二に、聖霊のバプテスマを受け、御霊を私たちの中に内住するお方として宿すこと。第三に、御霊によって聖別されること。第四に、私たちの肉体に聖霊による復活の命を受けることだと。

 

タイトル)「聖霊によって生きる」

 Ⅰ. それは、御霊によって生まれること

 ヨハネの福音書を見ると、「人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることができません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ356節)と、イエスはユダヤ人の指導者でありパリサイ人であったニコデモに御霊、すなわち聖霊における完成を教えておられます。それでなくては神の国に入ることはできないと。

 ニコデモはパリサイ人として聖書の教えに深い理解があり、またその行いにおいても尊敬できる人物であったでしょうし、ユダヤ人の指導者としての人望もあったことでしょう。

 しかし、たとえ、素晴らしい知性や、非難するところのない道徳的品性を備え、優しい性質を身に着けていても、心に聖霊による新しい命がないならば、こういう人が天国に入ることは難しいとイエスはおっしゃったのでした。

 先の牧師は、キリスト教とは何を意味するかといえば、それは新しい性質を人に吹き入れることだといいます。それを私たちはイエスを救い主として信じて受け入れる「信仰告白」を通していただいています。

 

. 聖霊のバプテスマを受け、御霊を私たちの中に内住するお方として宿す。

 ヨハネの福音書でイエスがお約束された慰め主である聖霊が、単なる不思議な力の現れとしてだけでなく、人格的なお方として私たちの心に永遠に住まわれるのです。このことはエゼキエル書の預言の成就なのです。

 「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。 わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる。」(エゼキエル362627節)

 聖霊はクリスチャンの生涯に大きな聖なる経験をさせます。私たちが真に回心し、すべてを神の御支配にまかせ、うちに住んで働かれる聖霊の生ける宮となる時、私たちは新しい性質となるだけでなく、その性質の導き手として臨在されるのです。それはまさに天国の前味といえるのではないでしょうか。ヨハネの黙示録で「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられ。」(ヨハネの黙示録213節)そのような霊的な意味で神と人の和解の完成を味わうのです。そして、私たちはそれを洗礼を通して信仰によって受け、同時に洗礼式は見える式として表しています。

 

. 御霊によって聖別されることです。

 信仰告白と洗礼により、聖霊によって生まれ、聖霊のバプテスマを受けたクリスチャンは聖霊によって聖別されます。そのことをパウロは、「キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(ローマ82節)と宣言しています。これがイエスの約束された永遠のいのちを得た人が持つ、神のきよさです。しかし、この聖別は全く信仰の働きがその基礎となっていることを忘れてはなりません。それはアダムとエバに与えられていた自由の問題が残っているからです。神への信仰と礼拝が失われ時、神の聖別は私たちの人生の豊かさを保証するものではないと思います。

 

. 私たちの肉体に聖霊による復活の命を受けること。

 聖霊が私たちのうちに住まわれ時、それは復活のいのちが約束されています。パウロはこのように言います。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」(ローマ811節)私たちは、イエスが再び来られる再臨の時にそのいのちの働きを見るでしょう。

 

まとめ「聖霊によって生きる」

  それは、御霊によって生まれること。それはキリストへの信仰告白でした。

   聖霊のバプテスマを受け、御霊を私たちの中に住まわれこと。それは洗礼でした。

   御霊によって聖別されることです。それは神への信仰と礼拝でした。

   私たちの肉体に聖霊による復活の命を受けること。それは再臨を待ち望むことです。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会 説教2016年8月28日(主日礼拝)

1.  テキスト 「詩篇25篇」

2.  タイトル 「聖別された人生」

3.  中心聖句 「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」

(詩篇259節) 

4.  本文「聖別された人生」

序)「聖別された人生とは」

 聖別とは教会用語であり、私たちがこの世で生きていくうえで実践的に、また具体的にどうすればよいのかわかりにくい言葉ではないでしょうか。この言葉の悪い実践例がパリサイ人の例にあります。もともと、「パリサイ」とは区別するとの意味があり、彼らは聖書の求める聖別を肉の働きで行おうとするところに神の御心を損なう原因がありました。ある牧師は聖別とは霊的な聖霊の働きが大切であり、「もし私たちが静まって、自分たちの衝動や騒がしい様々な供給を抑え、神のみ旨と導きにすべてを明け渡す心をもって神にお会いするなら、御霊の導かれる道を知る」といいます。聖別とは聖霊とともに歩む人生、恵みによる霊的働き、信仰の働きの果実なのです。

 

本論)「聖別された人生」

Ⅰ.「聖霊とともに歩む生き方とは」

  御霊によって歩むとは、私たちの中に臨在され、宿られるお方として御霊を認識すること。それは、1節の「仰ぐ」という信仰の姿勢に表れています。私たちは日々、様々な人生の重荷を担い、そのことに心を奪われがちですが、そのような日々の中で、心を臨在される神なる聖霊様に向け、仰ぐことはとても大切です。

  御霊によって歩むとは、危機の時にも常に御霊に信頼し、これにより頼むことです。2節の「あなたに信頼します」との信仰を敵に迫られている時は、特に大切です。御霊は私たちの問題を引き受けてくださるのです。しかし、肺が開けば自然に酸素が入ることを期待するように聖霊を信頼できずに、気まぐれな友達のようにとらえ、祈りさえも単なる絶望のうめきであったり、神の御愛や誠実に反発してただ訴えている人が多いのではないでしょうか。約束の地に入れなかったモーセのように、静かに岩に語りかけ、求めに応じて流れ出る水を期待する代わりに、性急と不信仰によって激しく岩を打つことのないようにしたいものです。

  御霊によって歩もうとするなら、聖霊に相談しなければなりません。3節のように、私たちが見えるところの見込みや、望ましい環境をあてにするとき、もっともたやすく見えることも失敗するものではないでしょうか。聖霊様の働かれる条件は、まずその全知の知恵を受け、その導きに従うことです。ある牧師は、聖霊様の働きの力を経験しない理由は、御霊様の思いを受け、御霊様に従って働き、御霊様の力ある働きを体験する代わりに、自分の知恵によって事を行おうとするといいます。幼子のような素直で単純な信仰が必要なのです。

  御霊によって歩みたいと願うなら、御霊様の語られる時に従うことです。そしてこの神への従順とは傾聴から始まります。5節に「あなたの真理のうちに」とは、神の真理のことば、聖書のみことばに傾聴し導かれることです。なぜなら4節のように「道」を知らないからです。(Ⅰサムエル522節)「主は主の御声に聞き従うことほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

 

これまで、「聖別」という教会独特の用語に生きるとは、聖霊様とどのような関係であるべきなのかを聖書のみ言葉から見てまいりました。だから聖書はいいます。「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(詩篇259節)。聖別とは自らが神の前に貧しいものであることを認めなければ始まらないし、成長もないのです。

 

Ⅱ.「御霊によって歩む人生での、約束された勝利の恵みとは」

  聖霊による歩みは、罪からの完全な喜ばしい救いを確実にする。12節のように神は「選ぶべき道を教えられる」からです。

  聖霊による歩みは、生活に喜びと静けさ、安らぎと確信を与える。13節のように「その人のたましいは、幸せの中に住」むようにされる。

  聖霊による歩みは、神の摂理によって来るすべての事柄に、勝利をもって出会うようにされる。14節のように神が親しくされ、15節のように困難な状況を意味する「網」から救い出されるのです。

 

5.  まとめ「聖別された人生」

「主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。」(詩篇259節)。聖別とは自らが神の前に貧しいものであることを認めなければ始まらないし、成長もないのです。そして自らの貧しさを知るからこそ、主の臨在を信じ、主に信頼し、主に相談し、主のみ言葉に傾聴することができるのです。この霊的であり内面的、信仰的な働きが、聖霊様の恵みによる「聖別」を私たちの人生と生活に結実してくださるのです。