福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2016年7月)


以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。

福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル「平和をつくる者」(2016年7月3日)主日礼拝説教

テキスト「マタイ5章9節」

 はじめに、安全と平和について

 憲法第九条(第2章「戦争の放棄」)①項「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。②項「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 これらの憲法の条文を読むと、わたしは本日の聖書のことばが頭に浮かびます。憲法九条は日本を神の子の国として生まれ変わる希望のワンステップと私には思えました。ですから、憲法9条は教会にとっても大切と思えます。

 しかし、ある牧師先生が日本以外の国で「平和」と訳されることばが、日本語の「平和」と同じ意味で使われていないと記していました。西欧の「平和」の意味は日本語の「安全」に近く、例えば日本以外の国が血まみれになっていようが、日本がそれに巻き込まれない状態がその「安全」であり、「平和」だというのです。平和と訳される「パックス」は、「パックス・ロマーナ」(ローマの平和)と使われていることからも、なんとなくうなづけます。「パックス」とは支配者の打ち立てた強者の「秩序」で、支配されている人にとっては平和とは限らないのです。ですから、ドナルド・トランプがノーベル平和賞候補に推薦されたとのニュースもありましたが、そういうものなのでしょう。

 しかし、わたし達は聖書から「平和」を学びましょう。特に永遠かつ完全な平和を十字架で成し遂げられたイエス様から学びましょう。

 

テーマ)「平和をつくる者」

Ⅰ.「平和をつくる者」とは誰か

 ここでイエスは平和を「願う者」とか、「好む者」とか、「期待する者」とおっしゃられたのではなく、「平和をつくる者」と明確に言われました。現在、多くの地域で紛争があり、人々の血が流れ、難民を生んでいます。その様な世界にイエスは「平和をつくる者」としての私たちを必要とされているのです。平和が損なわれ、隠され、失われているところに平和をつくる者を、その存在を「幸い」と祝福されてイエスは求められておられるのです。

 

Ⅱ.「神の子どもたち」とは誰か

 イエスは平和を実現するために働く人々への祝福として、「その人は神の子どもと呼ばれるから」と言われました。当時、人々はローマ皇帝の「力による平和」を称え、「神の子ども」と呼んでいました。これはイエスの時代、ローマ帝国の支配下の民衆の間で広く知られたことでもありました。剣を持った権力者、統治者による「力による平和」です。

 しかし、イエスは「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」(マタイ26章52節)と剣を例にあげ、力の支配のむなしさを教えられました。神の子どもたちの平和への道は、力により人々を押さえ込むことによる平和ではないのです。ですから、本日の中心聖句はイエスからわたし達に向けての大きなチャレンジなのです。

 

Ⅲ.「キリストの十字架と御霊の実が平和の鍵」

 この世は、争いに満ちています。夫婦も親子も社会も、その様な中でイエスは剣を持たない、権力も持たない、丸腰のようなわたし達に大きなチャレンジを与えられました。わたし達は如何にして「平和をつくる者」となれるのでしょうか。その鍵が「キリストの十字架」にあるのです。十字架により、神との和解を経験したわたし達だけが、御霊の実に満たされ、愛と寛容と誠実、親切、善意、誠実、柔和の御霊の賜物を頂いて、平和をつくる者とされるのです。剣の力、支配の力によってではなく、愛の力、赦しの力によって造り上げられる平和なのです。聖書は言います「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。」(エペソ2章14・15節)

ですから、キリストの十字架と御霊の実こそが平和の鍵なのです。そのためには教会が宣教に励まなければならないのです。クリスチャンの証による伝道こそが平和を生み出すのです。

 

(今週の祈り)

  福音宣教で世界に平和をつくる者となるために


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル「弱くても、いいじゃないか」(2016年7月10日)主日礼拝説教

テキスト「第一コリント1章26~31節」

はじめに)『ある牧師の証「楽しく弱さを」に共感』

ある牧師先生が自らの弱さを自覚しながらも、聖書の御言葉に励まされて、神学校を卒業された証しを「百万人の福音」の記事で読み、感動しました。その先生の「弱さを楽しく」と題された証しで開かれていた箇所、第一コリント1章27~29節から、中心聖句に(第1コリント1章27節)「強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。」とし、私たちも「弱くても、いいじゃないか」、小さくて何か文句、いや問題があるのか、と信仰の勇気と希望をいただきたいと願います。

 

テーマ)「弱くても、いいじゃないか」

Ⅰ.「教会の中には弱者や欠けのある者が多い」(26節)

 パウロはコリントの教会へ語りかけます。その理由はコリントの町の価値基準が教会内に持ち込まれようとしていたのではと、想像されます。コリントの町は現在のギリシャに近く、またエーゲ海に面した港を持っていました。そのため、交通の要所となり、商業が発展し経済的繁栄を謳歌していました。また、スポーツ文化の面でもオリンピア(オリンピックの元の大会と言われる)に次ぐ人気の競技大会を一年おきに行っていました。その様な社会では人間は評価される価値のあるものを持っているかで、決まっていたのではないでしょうか。

 しかし、パウロはコリントの教会の人々に、あなた方の群れの中に、賢い人多い?権力者多い?社会的地位の高い人多い?と大変失礼なことを聞くのです。

 

Ⅱ.「神は弱い者たちを用いて歴史を変えられた」(27~29節)

 でも教会の群れは「弱くて結構」なのです。神は弱者と言われる人々、社会的評価の低い人々を通して、ご自身の勝利を確実にされるお方なのです。黒人解放運動はマーチン・ルーサー・キング牧師の説教がきっかけでした。教会の講壇から神の言葉が語られた時、虐げられていた黒人は人間としての尊厳を取り戻して、差別への平和的な抵抗運動を始めたのでした。モーセはエジプトの軍隊から川の中を渡って逃れました。ヨシュアはエリコの城壁を力ではなく信仰で崩しました。

 聖書も、また歴史も証しています。使徒の働きの教会の誕生から成長においても同じでした。この葛西福音キリスト教会も同じではないでしょうか。神が働かれるとき、人の数や建物の大きさが問題ではないのです。だから、自分や人に失望することがあっても、神様への希望を失ってはいけないのです。

 

Ⅲ.「信仰の成長も肉の働きではなく、神の霊の働きです。」(30~31節)

 さらに、パウロは「キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」と言います。これはクリスチャンの過去、現在、未来が神の霊的恵みによって支えられ、御心が実現するといっているのです。

 「義」とは「救い」ともいわれますが、キリストの十字架のゆえに、義なる者として神に受け入れられること。「聖め」とは「聖化」とも「信仰の成長」ともいわれるが、無償で義とされた者が、その立場にふさわしく生活し続けること、それは聖霊の働きによるキリストとの交わりの中で可能とされる神の恵みのわざです。「贖い」とは「栄化」ともいわれますが、キリストによって既に代価が支払われているゆえに約束されている最後の日(再臨)における完全な解放のことです。パウロは教会の群れの過去、現在、未来をキリストの霊的恵みと教えています。

 

結論「弱くても、いいじゃないか」

Ⅰ.現実に「教会の中は弱者や欠けのある者が多い」が、それで結構なのです。

Ⅱ.なぜなら、「神は弱い者たちを用いて歴史を変えられた」からです。

Ⅲ.それのみか、「成長も肉の働きではなく、神の霊の働きです。」

 だから、「弱くても、いいじゃないか」なのです。

 

今週の祈り

  失敗や様々な出来事の中で自分自身に、また教会に失望し、希望が見出せないときでも、弱き者をあえて選ばれる神に希望はあるのです。「弱くても、いいじゃないか」。信じる者は救われるのです。


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル「私が弱い時こそ、私は強い」(2016年7月17日)主日礼拝説教

 はじめに、「弱さに社会は価値を与えるか」

 テストでは高得点が評価され、零点は評価されません。子供は、親に高得点だと親に見せやすいですが、低い点だと見せにくく、特に0点だと隠すことも多いものではないかと思います。それは低い点だと誰も評価も注目も尊敬も与えてくれないからでしょう。テレビ広告でもウィークポイントは決して言いません。しかし最近、医療機関ではインフォームドコンセプトを行ない、手術や治療のメリット・デメリットを明確にしています。先ほどのテストでの不正解やバツ印も、自分は何を理解していて、何を理解していないか。またどれほどの理解の深さがあるのかという、自分を知ることができるメリットは点数によらずに受けることができると思います。最近の車の燃費や排ガスの不正も、自社の車の技術レベルの弱点を隠すのではなく、真摯に受け止めて改善に取り組まないことから来たのではないでしょうか。「弱さ」も前向きに受け止めるなら、それは人生や社会に大きな豊かさを与えるものとなると、私は思います。パラリンピックで受ける感動も同じではないかと思います。聖書もパウロを通して信仰を働かすなら「弱さ」には素晴らしい価値があると言っています。

 

テーマ)「私が弱いときこそ、私は強い。」

Ⅰ.パウロの特別な体験(1~4節)

・十四年前の体験とは何か?

 この手紙が書かれたのはおおよそ紀元57年とされるので、14年前は、紀元43年となります。ダマスコ途上の回心の出来事は20年前の出来事なので除くとして、おそらくパウロがアンテオケ教会で奉仕していた頃(使徒の働き11章26節)と思われています。

・第三の天とはどこ?

 このことについて、色々な憶測がされていますが、カルヴァンの説が有力で、三とは数字の意味ではなく、「至高の」「完全な」と言う意味とされ、きよく完全な神の御前と思われます。そして、4節以降はその繰り返しと私は思いますが、パラダイスとはペルシャの言葉で「楽園」「公園」を意味し、旧約聖書の「エデンの園」を70人訳聖書でギリシャ語に訳したときにこの言葉を当てたことが始まりとなったそうです。すなわち、罪のためにエデンの園を追放された人間が、キリストの罪の赦しのゆえに、パウロはあらゆる祝福を回復する恵みを味わったと言っているのです。パウロは生きたまま、その恵みを味わったのでした。

Ⅱ.弱さを知るパウロ(5~10節)

   謙遜なパウロ

 しかし、パウロはそのような人がうらやましく、また一目置かれるような経験を自慢し誇ることはしないと宣言します。もちろん、これは全く神の恵み、キリストの十字架の苦難と復活の栄光の故にある恵みなので、パウロでなくても自慢すべきではないでしょう。しかし、当時のコリントの教会では世俗の価値基準が持ち込まれていたので、パウロの体験はもてはやされたことでしょう。しかし、パウロは神からトゲを与えられ、弱さを知るからこそ、謙遜でした。

 ②肉体のとげとは?

 パウロの肉体のとげが何を指しているかは諸説あり、確定していませんが、その意味については深い考察がなされています。「とげ」ということばは本来「杭」を意味し、「肉体にひとつの杭が与えられ」とは、「杭」が「十字架」指し、御霊に逆らう「肉」を「肉体」が指すと解釈し、パウロは、キリスト者が肉の弱さに負けてしまわないように、日々の十字架を背負うこと(ルカ9章23節)、またすでに十字架につけられているという意味を実感する経験が続いていたのではないかと考えられています。自分の欠けや失敗、病気や迫害、そのような中でキリストの十字架を信じ、また自分の十字架を背負い、キリストに従うことこそ、勝利への道であることをパウロは経験し、「弱いときこそ、私は強い」と確信したことでしょう。

   パウロの祈りに答えられない神

 それでも、パウロも人の子であり、神様へ困難であり、苦痛を伴う「とげ」を去らしてほしいと三度もお祈りします。まるで、ゲッセマネの祈りを思い出させるシーンですが、そのときと同じ答えがパウロに返ってきます。パウロの祈りは答えられませんでした。人は誰でも苦痛を嫌います。逃れようとします。しかし、苦痛があるからこそ、神の御前に自分の弱さを知り、謙遜に生きることができるのではないでしょうか。真珠貝も傷があるからこそ、美しい真珠ができるといいます。ですから、「弱いときにこそ、強い」のです。

 ④「甘んじる」信仰とは。

 パウロは「甘んじる」と言いますが、これはじっと耐えるというよりも、先に待っている主の恵みを信じて喜びを感じるという意味だそうです。自分の弱いところにキリストの栄光が現れ、キリストの力によって強く生きることができるから、喜びを先取りしつつ耐えることができるのです。

 

今週の祈り)「私が弱いときこそ、私は強い。」

 ①弱さを持つわたし達は十字架にすがる時、強いのです。

  自分の力ではなく、十字架の恵みにすがることこそ、真の強さです。

 ②祈りが答えられない時、キリストの復活の勝利を思いましょう。

  キリストはご自分の御思いを捨て、十字架で勝利をとられました。

 ③困難や苦難の中で、主の恵みを信じ、喜びを先取りしましょう。


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

「平安な人生は神への謙遜が生み出す。」(2016.7.24)主日礼拝説教

 序)「なぜ、善人にも悪人と同じ不幸な出来事が起こるのか。」

 今日は聖書の中でも、クリスチャンの受ける試練や苦しみについて深い教えのあるヨブ記から学びます。なぜ、神を信じる者にも、信じないものにも同じような試練や苦しみが起こるのか。神の側に不正があるのか。それとも神は私たち人間の日々の営みに無関心なのという疑問についてです。

 ヨブは神から信仰を認められ、多くの祝福を受けていましたが、神へのヨブの信仰を疑うサタンと神の話し合いの結果、試練を与えられます。しかし、それは当然ヨブの知るところではなく、ヨブは理由もわからない中、試練で多くのものを失います。それでもヨブは過酷な二回の試練でも信仰を捨てず、それは妻もあきれるほどでした。ヨブはいいます。「私は裸で母の胎を出てきた。また、裸でかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな」(ヨブ1章21節)、「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」(ヨブ2章9節)。

 そのよう中、ヨブを慰めようと友達が訪ねてきます。しかし、ヨブのあまりにも変わりはてな姿に言葉を失います。神学者はこの友人たちの来訪がヨブへの第三の試練だといいます。そしてヨブ記はその友人たちとの会話が大半を占めます。 

 

テーマ)「平安な人生は神への謙遜が生み出す。」

Ⅰ.「ヨブの第1の謙遜を学ぶ」(401~5節)

 ①「神は嵐の中からヨブに答えられた」(ヨブ38章~39章)

 自分の正しいことは明らかだと友人たちに論証します。これは神の側に不正があり、ヨブの受けている苦痛や悲しみは自分には何のいわれもないことだ、神の側に不正や誤りがあるとの主張でした。しかし、そのようなヨブに神は嵐の中から答えられます。

「知識もなく言い分を述べて、摂理を暗くするこの者はだれか。さあ、あなたは勇士のように腰に帯を締めよ。わたしはあなたに尋ねる。わたしに示せ。」           (ヨブ3823)

 そして神は動物の生態についてヨブに問われました。そして言われました。ヨブよ、神の御前ではお前は何も知らない者同然だと。それゆえ、神の摂理、すなわちそのご計画とその遂行についてあなたは神に意見も助言もできるはずもない。それなのにお前は神を裁こうとしていると。ヨブ記38章から39章では「大地の創造」、「海の創造と統治」、「朝の規則正しい運行」、「地上の神秘」、「天地の神秘」、「星座の運行」、「動物界の神秘」について神が語られ、ヨブに問われています。

 

 ②「全知の神の前に謙るヨブ」(4035)

 2節の「批難する者」とは「あら捜し屋」という言葉で、聖書ではここでしか使われておりません。そのような皮肉たっぷりの言葉でヨブに語られています。それに対するヨブの態度はただ「手を口に当てるばかり」でした。それはヨブは二度と、神を問い詰めたり、神に挑戦したり、神を裁く気持ちのないことを告白しています。

 神はまず第一に、ヨブの高ぶりを打ち砕くことが目的でした。しかし、神の目的はそれだけに終わりません。打ちのめされたヨブが再び立ち直って、神のしもべとして仕えるまでに回復されなければならなかったのです。

 

Ⅱ「ヨブの第2の謙遜を学ぶ」(4216)

  「神は嵐の中からヨブに答えられた」(ヨブ406節~41)

 そして再び神は嵐の中からヨブに言われます。そして「神に代わって、悪者を統治せよ」、「カバについて」(このカバは私たちが動物園で見るものより大きい神話的存在と言われています。)、「レビヤタン(神に逆らう神話的怪獣)について」述べられます。それは神からヨブへの、あなたは神と等しい力を持つ者であるか、と言うと問いかけでした。神はこの二つの神話的な怪物を示し、それらもまた神の被造物にすぎないと言われるのです。神はヨブに、神の持つ全能の力が、この全宇宙のすべての統治権に及ぶその範囲を教えらたのです。それはヨブがどれほど高ぶっても、これらの怪物同様、神の被造物はすべて、神の摂理とその統治のみわざの外に出ることはできないと教えられたのです。

 

 ②「全能者の前に謙るヨブ」(4216)

 ヨブは神の第2回目の教えの真意を悟ることができました。それで「神はすべてのことができる」お方だと告白します。それは神の全能性が、二つの怪獣が指し示すように、この世の暗黒の権威にさえも及ぶという告白でした。

 そういえば昔映画で神父とサタンの戦いが描かれるものがありましたが、聖書はサタンが神の被造物の一つに過ぎないとも言い、神のサタンに対する勝利は明確です。映画では神父の血と汗と最後には命が失われていましたが、聖書はキリストの流された血と十字架でのキリストの死によってサタンに勝利したと明確に宣言されています。

 話は、それましたが、ヨブは試練の中、神への不信仰の毒に苦しめられますが、神の支配の外にあるものはないと確信するに至るのでした。そして試練の中、目に見えるところが報われそうに思われなくても、信仰の従順が勝利であると知ったのでした。

 しかし、それはエリフも含めた四人の友人からのことば、またヨブ自身の信仰生活からの知識や経験からの学びだけでは、ヨブの困難な問題を解決するには至らなかったのです。ただ神が嵐の中から語られた時、ヨブが神を見たと言いうことが、四人からの助言とヨブの神知識と経験の積み重ねの上に、神への単純でかつ純粋な全知全能なる神への信頼と確信が生み出されたのでした。そして、神への謙りを告白するに至るのでした。そして神はヨブを再び祝福され、失われた物以上のものをヨブに与えられました。

 最後に、このヨブ記のもう一つの教えは、神が最後の最後までヨブに対し、ヨブの受けている試練、苦しみ、悲しみの理由を一切ご説明されないということです。私たちは聖書を読んでいるからこそ悪魔と神との会話から理由を知っているのです。それは私たちがヨブと同じような体験をするとき、その真の答えは天国で神様に聞く以外にないし、私たちは試練の理由がわからなくても神に信頼していく時、祝福されるとのことなのだと思います。

 

勧め「執着心は滅びを、平安は謙遜が生み出す。」

1.この世は因果応報の教えでは納得できないことが起こることもあるでしょう。それでも全知全能

 なる神に全てを委ねて生きましょう。必ず神は全てのことを正しく裁かれ、神を信じる私たちに祝

 福を約束してくださいます。


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

熊谷キリスト教会小澤聖牧師による特別主日礼拝(2016年7月31日)

 この週は熊谷キリスト教会牧師による特別主日礼拝のご奉仕でした。