福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2016年6月)


以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。

福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル 「神の愛から来る希望」(2016年6月5日主日礼拝説教)

1.テキスト箇所 「申命記8章1~9節」

2.中心聖句 (申命記8章3節)

「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる、ということを、あなたにわからせるためであった。」

 

 「神のことばで生きる」

 なぜ、クリスチャンにも苦しみや困難があるのか。

 皆さんは、疑問に思わないでしょうか。神を信じていない人に起こる困難な状況が、神を信じている私たちにも同じように起こるとき、「神様、なぜ、私にこんなことが」と思わないでしょうか。東日本大震災でも教会が流され、そこの信徒さんや先生が召されました。なぜなのか。同じことが起こるのなら、神を信じなくても良いではないかと、そのような考えが起こってもしょうがない、そのような思いが、頭の中に生じることもあるでしょう。これはヨブ記のテーマにもつながりますが、なぜ、クリスチャンの地上の生涯で、この世の人と同じ苦しみや悲しみが生じることを神が許されておられるのか。そのところをを聖書から見てまいりましょう。

 

テーマ)「神のことばで生きる」

①神が人に与える試練の目的「パンのむなしさを知る」(2・3・5節)

 ・苦しみ、飢えを通して「パンのむなしさを知る」

 カナンの地偵察隊(民数記14章1節)の報告を聞き、全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かした。イスラエル人はみな、モーセとアロンにつぶやき、全会衆は彼らに言った。「私たちはエジプトの地で死んでいたらよかったのに。できれば、この荒野で死んだほうがましだ。なぜ【主】は、私たちをこの地に導いて来て、剣で倒そうとされるのか。私たちの妻子は、さらわれてしまうのに。エジプトに帰ったほうが、私たちにとって良くはないか。」

 彼らは神のことばを握って、神に信頼して生きることが求められた。でも、彼らにはできませんでした。ある先生が「パン」とは現代風に言い換えると、科学や文明だと著書の中で記しておられました。科学や文明は便利な社会を実現しました。科学や文明は人間の寿命を延ばし、便利にしました。しかし、私たちの人生の悩み不安、生きる意味、明日への希望への答えを与えてはくれません。聖書は信仰があれば、医学や科学は不要だとは言っていません。ただ、医学や科学だけでは人は生きることはできないといっているのです。

 イスラエルの会衆は、これから彼らが体験するであろう様々な事柄への不安に襲われたとき、「パン」ともいえる彼らの武器や戦闘能力、経験は全く無力でした。しかし、神は彼らの肉の力を頼りとしていませんでした、彼らの信仰を求めておられたのでした。そのことは後のエリコの城攻略やヨルダン川の川渡りで明らかになります。

 

 ・心のうちにあるものを神が知るため。

 それは、パンに頼って生きているか、神のことばに頼っているかを問うためなのです。「あなたがたはどこまで道理がわからないのですか。御霊で始まったあなたがたが、いま肉によって完成されるというのですか。」(ガラテヤ3章3節)

 クリスチャン人生が御霊で始まったのなら、御霊様が完成させてくださるのです。恵みで始まったのなら、恵みが完成に至らしてくださるのです。ただ、主を信じ、御言葉を握って、自分を捨て、従うものが勝利をいただけるのです。

 試練で大切なのは肉に頼るより、才能や知識、団結力よりも、御霊によりすがり、神の知恵と助けに一番にすがることなのです。私たちの肉の働きは、神の働きの中で最高に用いられるのです。ですから、試練で人はそのところを問われるのです。

 

②しかし、神は試練の間も私たちを養われる方(4節)

イスラエルの会衆は、荒野の旅路では神に信頼どころか、神に逆らうばかりでした。それでも神はイスラエルの人々を荒野で養われました。

 それは神がどこまでも憐れみ深くあられる方で、神の怒りを買う民でありましたが、神はマナや水、また肉を山ほど、提供されます。その理由は、神は憐み深く、地上の生涯を生きる間のクリスチャンの多くは「追い求める者」と知っておられるからです。聖書は言います。(Ⅰコリント141節)「愛を追い求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。」(Ⅱテモテ222節)「それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。」(ヘブル1214)すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。」神は、私たちが地上での生涯で「追い求める者」であるのを知っておられるからです。

 

まとめ 「神のことばで生きる」

 

 本日はクリスチャン生涯の試練について聖書から学んでまいりました。その理由は、神が私たちの心のうちを、本心を知りたいからだと聖書は語っています。わたし達は、思わぬことが起こったときに、戸惑い、悩むこともあるかもしれませんが、それは「パンのむなしさを知る」時でもあるのです。ですから「神のことばで生きる」者でありましょう。神はあなたを愛しておられますから。


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル「聖霊の導きを求めて」 (2016年6月12日主日礼拝説教)

はじめに)「迷いやすい存在の羊として、聖書は人を描いています」

 神によって創造された「アダム」と「エバ」がことの始まりでした。彼らは神から禁じられていた「善悪の木の実」を食べて判断する知恵を得ました。そうして人類最初の彼らは神の導きを疑い、そして自由になりました。しかし、彼らの得た自由は彼らを幸せにはしませんでした。なぜなら、神は最善を知っておられますが、人の持つ知識や知恵は、どこまで突き詰めていったとしても、限界があり、人は自己中心的な存在だからです。そのため、2人から生まれたカインは、自らの献げ物に対する神の態度に疑問が生じた時、怒りの感情から殺人という自己中心的な行動を選択し、弟アベルを殺してしまいます。聖書にはこのように正しい選択ができず、自己中心的な誤った選択のゆえに、罪に落ち込んでいく人々の姿が多くみられます。それゆえ、聖書では、迷いやすく愚かな羊の姿に人を例えて描いています。また、人々は人生への漠然とした不安からも星占い、血液型占い、誕生月占いに導きを求めています。宗教を非科学的なもの、非合理的なものとして信用しない現代人も、占いにひかれ、呪いを恐れるのはなぜでしょうか。

 

あなたは自分の人生に自信をもって正しいと言いえるでしょうか。もし占いなどにあなたの人生の導きを求める思いがあるなら、その前に聖書の言葉に耳を傾けてみませんか。

 

テーマ)「聖霊の導きを求めて」

Ⅰ.「人を導くために聖霊は来られる」

 そのような迷いやすい羊のような存在の私たちのために、聖霊が私たちに送られたと聖書は言っています。イエスはこのように弟子たちにお約束になりました。「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ1416)

また、その助け主の名は「聖霊」であってそのお働きについては、「助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(ヨハネ1426)とお教えになられました。

 イエスを信じる者には、私たちを正しく導く「聖霊」が「助け主」として来てくださるのです。ですから、人生に迷っている人、どうしても正しい選択ができないでいる人はイエスを信じてください。イエスを信じるなら、あなたは必ず変わります。あなたの人生は確かなものに、そして神に喜ばれるものになるのです。

 

Ⅱ.「聖霊の導きの四つのステップ」

 では、私たちはどうすればよいのでしょうか。「聖霊」は私たちの目には見えない存在のお方です。「百万人の福音」で聖霊の導きを求める祈りが教えられていました。「日々のふり返りの祈り」(別名『意識の究明の祈り』)

 ①「一日を、感謝をもってふり返る」

 第一のステップは、感謝の思いです。感謝することは、私たちの神との関係・交わりの土台です。一日の終わりに、神の御前に祈り出て、一日をふり返り、感謝できること、感謝したいことを見つける時間を持ちます。

 ②「一日の中で、感謝を持って心が動いた出来事や経験に目を留める」

 その感情が否定的なものであっても、肯定的なものであっても、それらの感情の自分にとっての意味を考えます。その感情はどうして出てきたのか、そこに自分の何があらわれているのだろうか。これらの感情を通して神は私に何を気づかせようとされているのだろうかと、一日の終わりに静まって振り返ります。

 ③「②の中から特に大切だと思われることを一つ選ぶ」

 先の②の中で特に大切と思われることを一つ選んだことを思い巡らしながら、そのことに伴う感情も含めて祈る。心に湧いてくる思いを、感謝でも、悔改めでも、とりなしでも、気づきや問いかけでも、そのまま祈ります。

 ④「明日のために祈る」

 今日のふり返りに基づいて明日のために祈る。同じような過ちを繰り返さないように、より良き日となるために、より神さまの導きに応え、従うことができるように。そして明日の事を思う時、心に湧いてくる期待感、あるいは、気の重さ、不安感などの感情も含め、あるがまま祈りに込める。明日のための導き、助け、また、明日への望みを祈り求める。

 

勧め「聖霊の導きを求めて」

 「真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。」(ヨハネ1613)

皆さん、どうか、だまされたと思って、今日から始めてみては、どうでしょうか。「日々のふり返りの」四つのステップは私たちの人生に感謝と安心感を与えてくれるとお勧めします。


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル「幸運な人」(2016年6月19日)主日礼拝説教

テキスト「創世記39章」

はじめに「不運、不幸、苦しみの意味」

 中心聖句は(創世記3923節)「それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」です。すなわち、主の臨在、聖霊の満たし、主を心の王座にお迎えするなどは、私たちの人生に幸運を呼び寄せ、また約束することだというのが、今日のテーマです。

 

今日の聖書の箇所は、神からイスラエルという名をもらったヤコブの子のヨセフのエジプトでの奴隷生活が舞台です。ヨセフがエジプトで体験する苦難は、将来のイスラエルのためであると共に、イスラエルのために用いられる器となる霊的な訓練の時でもありました。奴隷として売られた彼は、更に犯罪者として社会のどん底に陥れられます。この体験は、父に特別に愛された子供としての誇り高く、自己満足の傾向を持つ彼がきよめられる機会となり、ヨセフにとって自我を治める者と成長したと聖書学者は言います

 

テーマ) 「幸運な人」

Ⅰ.奴隷として売られても「幸運な人」

 不思議ですね。聖書はエジプトに売られたヨセフを「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」といいます。聖書はヨセフの身分と環境が奴隷の状態のときに「幸運な人」と呼んでいることが第一に大切な点だと思います。

 私たちは「環境」が変わればとか、思い通りの道が開かれればとか、思い通りに自由にできればとか、考えやすいものではないでしょうか。しかし、聖書はヨセフが奴隷の時にそのように呼んでいます。その詳しい神様の祝福の内容が3節から5節にあります。最終的に主人に家にまで神の祝福が及びました。私たちも同じです。私たちもどのような環境の中に置かれていても、主が共にいてくださるならば「幸いな人」なのです。そして私たちが主のために仕える地域社会、職場、家庭も同じように祝福され得るのです。

 

Ⅱ.罪人として捕らえられても「幸運な人」

 その後、主人の妻から「私と寝ておくれ」と7節にありますが、6節に「ヨセフは体格も良く、美男子であった」とあり、クリスチャンは自分から進んで罪を犯すことは少ないでしょうが、周囲の人からそのような誘惑を受けることもあるでしょう。そして、私たちが正しければ正しいほど、様々な計略や、濡れ衣の罪をかぶせてでも罪に定めようとする人も出てくるでしょう。14節から18節のようなことも私たちに及ぶかもしれません。ヨセフの場合は、王の囚人が監禁されている監獄に入れられました。

 しかし、21節、「しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた」まさに、ローマ人への手紙で「かん難をも喜ぶ」といったパウロの体験もこのようであったのではないかと思います。

 私たちはしばしば自分ではどうしょうもない場面に出くわすものではないでしょうか。熊本地震や東関東大震災、阪神淡路大震災など突然の事故や病気もそうでしょう。自分の力や努力では途方にくれるばかりの体験をすることがあるかもしれません。しかし、ヨセフの体験はクリスチャンがどのような環境中に置かれていたとしても「幸運な人」だと教えていると思います。ヨセフにとってエジプトでの苦難の体験が神の救いの業を体験するとき、またヨセフの自己中心的で、自己満足を大切にする生き方を修正することとなりました。聖書学者はそれを「きよめの体験」といいます。

 

勧め「幸運な人」(創世記3923節)

 「それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」すなわち、主の臨在、聖霊の満たし、主が心の王座にお迎えするなどは、私たちの人生に幸運を呼び寄せ、また約束することだというのが、今日のテーマでした。皆さんは「幸運な人」として、人生を歩みたいと思いませんか。 


福音伝道教団 葛西福音キリスト教会

タイトル「十字架を負う人生」 (2016年6月26日)主日礼拝説教

テキスト「ルカ9章18~27節」

 テーマ)「十字架を負う人生」

Ⅰ.「負うべき十字架とその祝福」(23節)

イエスは言われました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私について来なさい。」と。キリストについていくとき、そこに立ちはだかっているのは十字架です。イエス・キリストを信じたクリスチャンがキリストに従おうとするとき、負うべき十字架があるのです。ある牧師が言っていましたが、「その自覚せず、覚悟のないままキリストについて行くことになれば、過酷な出来事に出会うたびに『こんなはずではなかった』と後悔することになると。しかし、それを自覚し、覚悟する人には、祈りと賛美が深められる」と。

しかし、十字架は私たちにとって祝福なのです。それは主に従い行くものには必ず、祝福と恵みとが追ってくるからです。詩篇23篇には主に飼われる羊、主に導かれる羊、そして主に従い行く羊の平安と祝福が約束されています。だから、「たとえ死の陰の谷を歩みとも、わざわいを恐れない」のです。

 

Ⅱ.「自分を捨てるとは」(23節)

次に、自分を捨てるとはいかなるものなのでしょうか。それは自我という利己的な思い、自己愛をキリストの故に捨てることなのです。それは「神の国と神の義とを第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ6章33節)とのイエスの教えの裏返しともいえるでしょう。イエスがゴルゴダの十字架で自分を捨て、私たちの罪のために死なれましたが、三日後に復活されたように、私たちもキリストの故に自分を捨てて生きるものは、神から祝福を受けるのです。その祝福はこの世の祝福のように消えるものではなく、永遠に残る祝福なのです。

しかし、ある牧師の証しでも、「自分を捨てきれず、自分の十字架を避けたい」との思いから開放されない自分を悔改めるばかりだといいます。クリスチャンが地上の生涯を営む中で、多くの人がそのような思いを抱くものではないでしょうか。私も先生とも、牧師ともいわれておりますが、同じ思いでいます。イエスの愛された弟子たちもみなイエスを最後は見捨てて逃げ出してしまいます。

 

Ⅲ.「死を味わわない人」(27節)

 そんな肉の弱さを持つ私たちは、聖霊に満たされて生きるほか無いのです。イエスは最後にこうも言われました。「しかし、わたしは真実をあなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国を見るまでは、決して死を味わわない者たちがいます。」(ルカ9章27節)

 聖書学者は「死を味わわない」について、これは肉体の死のことを言っているのではなく、罪のゆえに霊的に死んでいる人間が、聖霊の働きにより新しく生まれ変わり、その恵みによって賜った永遠のいのちに生きる者と変えられることをイエスが言われたといいます。イエスの弟子たちも、また私たちも弱い存在です。しかし、イエスの真実、神の愛は助け主としての聖霊を送ってくださると約束されました。その聖霊の働きによって新しく生まれ変わることによってのみ可能となるのです。使徒の働きを見ると、聖霊降臨と共に弟子たちは変わりました。新しく生まれ変わった生き方ができる者と変えられました。負うべき十字架を負い、主に従いゆくものと変えられました。私たちにも聖霊の働きがあるならば、キリストの故に「自分を捨て」、キリストの故に「日々自分の十字架を負う者」として生きる者とさせていただけるのです。

 

中心聖句を唱和する。

(ルカ9章23節)

  「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、私について来なさい。」

 

今週の祈り

①「日々自分の十字架を負う者」とさせいただきましょう。

②「自分を捨て」キリストに生きる者とさせていただきましょう。

③弟子たちに様に、私たちも聖霊に満たされましょう