福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2016年12月)


以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2016年12月4日(第二アドベント)

1.テキスト「マタイ2118節」

2.タイトル「クリスマスは平和の記念日」

3.中心聖句(マタイ22節)

「私たちは、東のほうでその方の星を見たので、拝みにまいりました。」

4.本文「クリスマスは平和の記念日」

 序)「平和はどのようにもたらされるのか」

 ①世界のパワーバランスが崩壊の兆しとニュースは語ります。

 ②平和は世界の問題だけでなく、職場、家庭、心の問題でもあります。

 ③聖書は人が神との平和を得ることがその解決策と言っています。

 

本論)「クリスマスは平和の記念日」

 Ⅰ.「東方の博士のクリスマス」

  ①「東方の博士とはどういう人たちか」(1節)

 彼らは博士と呼ばれていますが、原語では「マゴス」、一般的に「魔術師」の意味となっています(例 使徒の働き1368節)。しかしこれはのちの時代の意味で、当時はそのような意味ではなく、英語訳聖書の大人向けでは「賢い男たち」、また子供向けでは「星の学者たち」ととらえるほうが正しいとされています。新共同訳聖書での「占星術の学者」という表現も、現代の占星術の占い師とは意味は全く異なっています。

 彼らはおそらく、諸説ありますが、占星術の本拠地「バビロン」、「ペルシャ」の人で、ユダヤにおけるレビ族のような異教ではありますが、高い地位の祭司職であったと思われています。ある神学者は「マタイは…真理を探究するまじめな賢人として占星学者を描いている」といいます。

 

  ②「東方の博士のクリスマス」(2節)

 東方の博士のクリスマスはどうであったのでしょうか。彼らは星の運行からイエス様の誕生を知りました。ある学者は紀元前7年の木星と土星が接近して強烈な光を放った説を発表しましたが、この紀元前7年は後から話が出てきますが、イエスの誕生日に非常に近い数字と思われています。

 東方の国に具体的に当たるのは、アッシリヤ、バビロン、ペルシャですが、かつてはユダヤ人を苦しめ、国を滅ぼした敵国でした。また多く国民(特に地位の高い人)が捕囚として連れていかれた敵国でした。しかし、その捕囚の間に聖書がバビロンやペルシャの人たちに浸透していったと思われ、メシア預言もまた人々に受け継がれ、東方の博士がはるばるイスラエルの首都に王がいると考えてエルサレムに来たのでは、と考えられています。神様のなさることは不思議ですね。そして9節、星に導かれて、エルサレムからベツレヘムに向かいます。その距離は約10キロで、ある人の体験談によると丘陵地の尾根のようなところを三時間以上歩くそうです。そしてイエス様に出会った彼らは10節喜び、11節ひれ伏し拝み、黄金、乳香、没薬をささげました。黄金にはイエス様の王の意味が、乳香にはイエス様を礼拝する意味が、また没薬にはイエス様の十字架の死を象徴する意味があるとされ、イエス様ご自身がどういうお方でどのような歩みをされるかが預言されているといわれています。

彼らのクリスマスへの態度には三つの学ぶべき点があります。第一、クリスマスには自ら神に近づくこと。具体的には聖書の御言葉に、また教会、クリスチャンの交わりに加わることでしょう。第二、クリスマスには、イエスを神の子と信じ、博士たちのようにその前にひれ伏すような謙遜な心で礼拝することです。クリスマスの主役はケーキではなく、イエス様です。第三に、クリスマスは神様にかけがえのないものをささげることです。私たちはイエス様に心をささげ、時間をささけ、体をささげ、また犠牲をささげる信仰を決断したいものです。

 

  ③「東方の博士が受けた祝福」

 その結果、東方の博士たちが受けた祝福とは何でしょうか。それは12節、ヘロデの策略から逃亡できたことでしょう。不思議な夢のお告げで無事に自分たちの国に帰ることができました。ヘロデは保身のためには手段を選ばない男でしたから、関わり合いになっても何も得るものがなく、ふるまい方によっては命も危なかったのではないかと思われます。

 

 Ⅱ.「ヘロデ王のクリスマス」

  ①「ヘロデ王とはどういう人物か」

 ヘロデ王とはどのような人物であったのでしょうか。彼は紀元前37年から紀元前4年までローマ帝国の後ろ盾でユダヤを支配した王様でした。しかし、ユダヤ人ではなくエドム人の子孫でした。すなわち神の祝福契約を売ったエサウの子孫でした。

 その彼が王になれたいきさつは、ヘロデのおじいさんが当時ユダヤの支配者ハスモン家の引き立てで将軍になれました。ハスモン家はマカベア戦争でイスラエルをシリヤの支配から武力で解放し、ユダヤの指導者となったマッタティヤの子孫で、紀元前二世紀、王権と祭司職を兼務していました。しかし、ヘロデのお父さんは仕えるハスモン家の内紛を利用して権力を握ります。ローマのポンペイウス将軍の助力を利用してハスモン家の王位継承争いに介入します。しかし、ユリウス・カイザルがポンペイウスを倒してローマの実権を握ると、カイザルに仕え忠誠を示します。カイザルはヘロデのお父さんを寵愛し、ユダヤの税務長官の地位を与えます。ヘロデのお父さんは表面上はハスモン家の権威に従いますが、紀元前47年、自分の長男をエルサレムの知事に、次男のヘロデ(後のヘロデ王)をガリラヤの知事に就任させます。ヘロデの父は紀元前43年、家臣に毒殺されました。紀元前44年、ユリウス・カイザルを暗殺したカッシウスはヘロデの徴税能力を評価し、シリヤの総督に任ぜました。しかし、カッシウスがアントニウスとオクタヴィアヌス(後のアウグストス)の連合軍に破られると、巨額のわいろをアントニウスに贈りガリラヤの領主の地位を得ました。その後ハスモン家は、反ヘロデ派が抗争を仕掛けユダヤは内戦状態になり、ヘロデの兄は殺されました。しかし、ヘロデはローマに逃げて、アントニウスとオクタヴィアヌスの支持を得、ローマの国会ともいえる元老院から紀元前40年にユダヤの王の称号を贈られました。その後もヘロデのユダヤの王権が確かになるまでには長い道のりがあり、クレオパトラも登場してヘロデの前に立ちはだかり、アントニウスの前に死を覚悟して出る場面もありますが、逆にヘロデは利用価値を認められました。それでヘロデはアントニウスに忠誠を示します。しかし、アントニウスとオクタヴィアヌスの戦いの際、前者にヘロデは加勢するはずでしたが、クレオパトラに妨げられました。それが幸いし、アントニウスが敗北し、オクタヴィアヌスが皇帝に即位したとき、ヘロデは許されたのみならず信頼を受け、ユダヤ王の地位を強固にしました。(説教では大部分を端折って話しましたが、説明のため加筆しました。)

 

 

  ②「ヘロデ王のクリスマス」

 ヘロデ王のクリスマスはどうであったのでしょうか。4節を読みますと、ヘロデは信じていたかどうかは疑問ですが、イエス様が救世主「キリスト」であると知っていました。しかし、彼にとってのクリスマスは3節のようにおそれ惑うものでした。それは彼が罪のゆえに真実に目が閉ざされていたからです。彼もまた、イエスを礼拝しに行くべき、一人の罪びとでした。しかし、彼は自分の王としての権力と政治力に酔っていて「クリスマス」の知らせを受けていたのに、イエスを礼拝しませんでした。

 ヘロデは、16節、イエス様を殺そうとして、ベツレヘムの二歳以下の子供たちを殺してしまいます。このことから、ヘロデの死は紀元前4年であり、かつ殺害の対象が二歳以下の子供なので、イエスの誕生は紀元前6年前後と推測されています。

 

 Ⅲ.「エルサレムの民のクリスマス」

  ①「エルサレムの人たちについて」

 当時のエルサレムは、「ローマによる平和」の中にありました。また、ローマは国々の宗教には寛容で、ローマに反逆さえしなければ自治もある程度は認めていました。ですから、3節のように、ローマの支配に影響を与えることは不安でした。宗教的にも祭司たちの多くはサドカイ派で復活も天国も信じない現世第一主義、また神のことばもモーセ五書しか認めず、預言書にあるメシア預言もおそらく信じていないであろう人々でした。

 

  ②「エルサレムの人のクリスマス」

 神から選ばれた民、アブラハムの子孫の彼らにはクリスマスは残念ながら何の意味もなかったのです。

 

  ③「エルサレムの人たちが見たものは」

 それは彼らが神様の代わりに支配者と認めた、ローマの代理者ヘロデ王のベツレヘムの乳飲み子虐殺でした。またエルサレムは西暦70年ごろにローマによって攻められ、神殿は完全に壊されます。そして祭司たちサドカイ派は崩壊します。しかし、律法学者は現在も活動中だとのことです。

 

勧め「クリスマスは平和の記念日」

 クリスマスは福音によってかつての敵国が祝福するためにエルサレムを訪問する日となりました。私たちも東方の博士のようにクリスマスにイエス様を礼拝しましょう。平和はイエス様を礼拝するところから広がります。笑顔が伝染するといいますが、私たちがもつ神様との平和は必ず、皆さんの心から、家庭から、職場から、この教会から広がるでしょう。

 最後に博士たちの礼拝の3ポイント。

第一、自ら神様に近づくこと。具体的には聖書の御言葉に、また教会、クリスチャンの交わりに加わることでしょう。第二、クリスマスには、イエスを神の子と信じ、その前にひれ伏すような謙遜な心で礼拝することです。第三に、クリスマスは神様にかけがえのないものをささげることです。私たちはイエス様に心をささげ、時間をささげ、体をささげ、また犠牲をささげる信仰を決断したいものです。


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葛西福音キリスト教会説教2016年12月11日(第三アドベント)

1.テキスト「イザヤ書53112節」

2.タイトル「私の痛みを担ったイエス」

3.中心聖句(イザヤ書535節)

「彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」

4.本文「私の痛みを担ったイエス」

 序)「痛みを知り、そして癒す。」

 私たちは自分の痛みには敏感でも、人の痛みには鈍いものではないでしょうか。今日はイザヤ預言から、私たちの痛みを担われるイエス様、そしてその痛みを十字架で身代わりとなって受けてくださり、私たちを救ってくださるイエス様について聖書から教えられましよう。

本論)「私の痛みを担ったイエス」

 .「第二のモーセ、イエス」(13節)

  ①「クリスマスへの驚き」(1節)

1節について、神学者は「この聖句は、信仰が神の賜物であり、頼りにならない人の力の結果ではない…神がこの力を現わさない限り人は回心することはない…神の御国の前進するための働きにおいて、神にのみより頼むべき」といいます。クリスマスはこの驚きをともなう喜びの時なのです。

 

  ②「第二のモーセ、イエス」(2節)

 2節ではイエスが「主の前に若枝のように」生きる者でありながら、人の前には「砂漠の地から出る根のように」と死にかけに見えたと。それは神の聖と力に満ちながら、同時に貧しく無力な人として生きる、第二のモーセとしてのリーダー像が預言されていました。

 モーセもまた、神に直接選ばれ、神の御言葉を取り次ぐリーダーでしたが、最初は同胞のへブル人の支持はなく、夢破れて40年も羊飼いでした。

 イエスもまた、なにもよいものはここからでないといわれるナザレで育ちました。また、生まれたときは家畜小屋でベッドは飼い葉おけでした。また律法の正式な教育も受けず、おそらく早い時期に育ての父ヨセフを亡くし、大工として家族を養いながら育ちました。しかし、それがモーセにもまたイエス様にも、また牧師にもクリスチャンにも必要と聖書は言っていると思います。(へブル52節)「彼は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な迷っている人々を思いやることができるのです。」思いやることができなければ人を救いに導くことはできないですよね。ですから、パウロと同じように、弱い時こそ私は強いと言えるのですね。

 Ⅱ.「イエスの十字架の苦しみ」(46節)

 イエス様の生涯には何の罪も悪事もないにも関わらず、十字架にかけられて命を奪われました。当時のユダヤ人の人生観は「病気や事故にあったり、ひどい仕打ちを受ける人は、神に呪われ、神から罰を受けているのだ」という考え方でした。しかし、イエス様の十字架でのお苦しみは、私たち人間が神様の御心に背き、自分勝手な道を歩み、その先には神様の裁きが定められたものであるのに、その身代わりだったのです。イエス様の十字架の苦しみはその罪の身代わりのお苦しみなのでした。

ですから、私たちはイエス様に感謝して十字架を信じて罪を赦されましょう。

 

 Ⅲ.「イエスの十字架は祭壇の子羊」(79節)

 ここにはイエス様の十字架が祭壇で捧げられる子羊として描かれています。イエス様の裁判では裁判官役のピラトですら罪を認めることができなかったのです。ただ、イエス様を快く思っていなかったユダヤの宗教家に扇動された民衆の勢いに押されて十字架刑が決まったのでした。

しかし、イエス様はそれに対して逃げも隠れもせず、誤解を解こうともせず、一言の弁解もしませんでした。それは私たちの罪の贖いの十字架だったからです。

同志社大学の創始者、新島襄学長は学生が意図的に拘束を破ったとき、「これは全く校長の責任である、それだから彼を処分しなければなりません」といって学長自身が右手に杖を取り、左の手を手の甲が腫れ上がるまで打ち付けました。それを見ていた学生は涙を流して心から悔い改めたそうです。

祭壇にささげるささげものは傷のないものでないといけませんでした。まさにイエス様こそ私たちの罪の身代わりとなるにふさわしいお方でした。

 

 Ⅳ.「イエスの復活」(1012節)

 この十字架の預言は、イエス様がお生まれになる700年前のものです。そしてそれが父なる神の御心でした。それゆえ、イエス様は復活され天にあげられ、イエス様のみ名を信じる人は罪を赦され、永遠のいのちが約束されました。

 ナポレオンの話で、「アレキサンダー大王、シーザー、ナポレオンは武力で多くの国々を征服した。しかし、彼らの天下は長く続かなかった。ところがイエスを見よ。彼が愛を土台として建てた信仰の王国は、後になるほどいよいよ栄え、彼のために命さえ捨てることさえいとわない者が、現に幾百万を超えるほど多くいる。…余は汝らに告げる。ナザレのイエスは人にあらずと」いったそうです。

 

まとめ「私の痛みを担ったイエス」

 イザヤはイエス様がお生まれなさる700年前にこの預言をしました。この預言には神の子イエス様が神の前には聖なる者、神の力に満ちたる者の生涯を歩みながら、同時に人の前には権力も権威もなく、無力な一人の人として歩まれるとありました。そして、イエス様の十字架で祭壇の小羊として苦しみ、そして復活される。そのイエス様の全生涯がありました。その恵みを喜ぶのがクリスマスです。私たちはこの喜びをもって、それぞれのいる場所に戻りましょう。この喜びから私たちを引き離すものは何もないのですから。


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葛西福音キリスト教会説教2016年12月18日(第四アドベント)

1.テキスト「ルカ217節」

2.タイトル「神はあなたのいる場所となられる」

3.中心聖句(ルカ27節)

「飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」

4.本文「神はあなたのいる場所となられる」

 序)「人は自分のいる場所を失うとき、生きる意味を失う」

 人は自分のいる場所を失うとき、生きる意味を失うものではないでしょうか。『百万人の福音8月号』に、ある青年の証がありました。その中で中学では都大会地区予選で優勝。高校でも都大会四位入賞。しかし、インターハイ出場を0.06秒差で逃してしまいます。彼は陸上の成績が自分自身の価値としてきたので、すべてが崩れ、自分の価値を見出せなくなってしまいました。その彼が「すべてことを益としてくださる神」との聖書のことばに目を開かれ、勝っても負けても、神を愛する者のためには神がすべてのことを益としてくださるなら、試合結果が自分の価値であるはずがないと思えるようになったのでした。

 本日のクリスマスのお話は「神はあなたの居場所となられた」です。イエス様は私たちの悲しみや苦しみ、痛みを知っておられるお方です。それは主イエス様ご自身が私たちの苦しみ、悲しみ、痛みを体験されたお方だからです。ですから、私たちにとってクリスマスは喜ばしい記念日なのですね。

 

本論)「神はあなたの居場所となられた」

 Ⅰ.「いる場所のないイエス様」

  ①「イエス様の誕生までのいきさつ」

 12節に住民登録の話がありますが、これについてクレニオがシリヤの総督になったのは、紀元前6年から4年と紀元後6年から9年の二回あり、聖書に『最初の』とあるので紀元前6年から4年との間がイエス様の誕生年と考えられています。これは先々週のマタイ福音書からのイエスの誕生年についての話と合っています。また百万人の福音12月号でも同じころと記されていました。先々週少し話しましたが、西暦とイエス様の誕生の関係についても詳しく記されています。ADとは「アンノドミニ」(主の年に)、BCは「キリスト前」です。

 このローマによる住民登録は税金の徴収や軍の徴兵のために行われていたといわれています。それでヨセフとマリヤはガリラヤのナザレから、生まれ故郷のベツレヘムへ行くことになりました。その距離は道なりだと約120キロ以上で三日半の旅です。また『百万人の福音』では直線距離110キロ、東京駅から千葉なら犬吠埼、群馬なら前橋、徒歩なら歩き続けて24時間とグーグルマップで分かったそうです。そのような距離は身重なマリヤさんにとって大変だったでしょう。

 

  ②「イエス様が生まれたのは家畜小屋?馬小屋?洞窟」

 そしてやっとベツレヘムに到着しても、住民登録で町はごった返していたのでしょうか。7節に「宿屋には彼らのいる場所がなかった」と宿屋はどこも満員でマリヤさんは出産間近なのに体を休める場所もなかったのでした。

 イエス様の生まれた場所が家畜小屋か、馬小屋か、洞窟かということも皆さんの疑問かもしれません。絵画では洞窟の絵がよくあるりますが、これは新約聖書外典の『ヤコブ福音書』から来たという説と『百万人の福音12月号』では、ベツレヘムには石灰岩の洞窟が多くあり多くの人がその中に住んでいたと考えられているので洞窟が定説となっていると記していました。

 またイエス様が生まれたのは、馬は軍馬として多くがローマ軍に徴用されたそうで、その他は高い地位の人か金持ちだけが持つ貴重な存在でしたので、馬小屋ではないとも言われています。それよりかは荷を運ぶロバの家畜小屋の可能性があると考えられています。

 またクリスマスの劇でよく見かける、宿屋の主人に満室だからと家畜小屋を案内されたというよりは、古く使われていない家畜小屋にもぐりこんだともいわれています。その理由は、毎日使われている飼い葉おけには飼料や水があり不衛生ですし、イエス様が寝ていては使えないとのことでした。まあ、クリスマスの諸説を紹介しましたが、聖書に記されていること以外は分からないことが多いですね。

 

  ③「イエス様はいる場所のない人のように生まれた」

 ただ、聖書が私たちに伝えていることは、「イエス様はいる場所のない人のように生まれた」ということです。これはイザヤの預言の通りです。(イザヤ5323節)「彼は主の前に若枝のように芽ばえ、砂漠の地から出る根のように育った。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもない。彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」これは、先週の『私の痛みを担った方』でお話ししました。

 宿屋こそ人間の泊まる場所です。また病院のような清潔で温かいベッドこそ赤ちゃんの眠る場所です。それなのに私たちの救い主イエス様はおそらく洞窟の家畜小屋で、飼い葉おけに寝かされていたのでした。イエス様はいる場所のない人の救い主。イエス様は私たちの痛みや辛さを体験された救い主なのです。

 

 .「イエスと出会っている場所を得た罪びと」

 ですから、聖書には多くの人がイエス様に救いを求め、また救われてイエス様に従いました。

  ①「取税人マタイ」

 イエス様の弟子であり、マタイの福音書を記したとされるマタイは、元々はローマに仕える裏切り者であり、不正な取り立てをする卑しい取税人でレビと呼ばれていました。レビとは由緒正しい12部族からの名前でした。しかし、イエス様は彼を招かれ、従ってきた彼にマタイ(神の賜物)という名を与えます。彼はユダヤ社会ではいる場所がありませんでしたが、イエス様の招きのことばに従ったとき、彼は神の御子イエス様に居場所を与えられたのでした。この居場所は地上の生涯だけでなく、永遠の居場所、天国につながるものでした。

 

  ②「取税人の頭ザアカイ」

 もう一人は取税人の頭ザアカイです。彼もマタイ同様に取税人でしたが、さらに頭として莫大な蓄財をなしたであろう人物でした。彼も同胞のユダヤ人から忌み嫌われていましたが、イエスの招きのことばに従ったとき、神の御子イエス様に永遠のいのちにつながる居場所を得たのでした。

 

今週の祈り

 ①たとえ、学校、職場、地域社会で自分の居場所を見出すことができなくとも、イエス様は居場所を与えてくださると信じることができるように。

 ②また、イエス様に招かれたらマタイやザアカイのように素直に従って行くことができるように。

 ③イエス様に居場所を見出したなら、イエス様から離れないように、聖書の御言葉と礼拝から離れないように。 


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2016年12月25日(クリスマス)

1.テキスト「ルカ2820節」

2.タイトル「クリスマスは誰のため」

3.中心聖句(ルカ211節)

「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

4.本文「クリスマスは誰のため」

 序)「クリスマスの童話」

 何か今日のお話の参考になるかと、図書館で子供向けのクリスマスの物語を探し、一つの物語に出会いました。題は『だれが鐘をならしたか』でした。内容は、ある教会でクリスマスに一番値打ちのあるイエス様への贈り物を祭壇にささげると鐘がなるとの言い伝えがありました。しかし、何年もその鐘はなっていませんでした。クリスマスの当日、金の塊がささげられても、宝石が、難しい本が、さらには王の冠がささげられ、王の権威さえもささげられても、何も起こりませんでした。しかし、小さな少年が、雪道で行き倒れた女性を助けるために教会でのクリスマスの楽しみを犠牲にした兄の一枚の銀貨を、兄の言葉通りに誰も見ていないときにささげると鐘がなるというお話です。これは子供に神様が喜ばれるささげものは自己犠牲の心、また善行は隠れたところで見ておられる神様の報いを信じて行う心だと教える教訓なのかと感じました。その他の子供向けのクリスマスの本も同様な内容がたくさんありました。

 クリスマスにはお祝いの意味合いとともに、人々の心に優しさと思いやりなど、聖書の教える愛について考える意味合いもあると思いました。

 

本論)「クリスマスは誰のため」(8から14節)

 Ⅰ.「天使から福音を預かる羊飼い」

  ①「社会的地位が低い羊飼い」

 聖書と羊飼いの関係は古く、創世記4章、世界で最初の人、アダムの子アベルが「羊を飼う者」となったと記されています。また牧畜生活とイスラエル人の生活は深いかかわりを持ち、特に旧約聖書時代は日常生活の衣食住のすべてが羊に依存していたそうです。羊毛、羊乳、食肉、天幕の覆いの皮、皮袋、角笛や聖油入れの角などとして用いられ、かつて羊は最も代表的な財産でもありました。

 しかし、イエス様のお生まれなさった新約聖書時代、イスラエルはローマによる支配を受け、羊飼いたちの社会的地位も大きく変化していたようでした。その一つの表れが、羊飼いは裁判で証人になることができないとされていたそうです。これは羊飼いたちの社会的信用が一般人より著しく劣っていたことを表しています。旧約聖書の時代のイスラエル人と新約聖書の福音書の時代のイスラエル人では文化的に何らかの大きな変化が生じていたと思われますが、はっきりしたことは調べましたが分かりませんでした。

 おそらく羊飼いの信用の問題は裁判所に留まらないのではないでしょうか。現代に置き換えると、家を借りるときの保証人になれないとか。クレジットカードが持てないとか。契約書を交わすことができないとか、私たちが普段何気なく行使していることが困難になるのではないかと思います。皆さんの息子さんや娘さんが羊飼いとお付き合いしたり、結婚したりすることをどのように思われるでしょうか。法律では結婚は成人であれば本人たちの自由ですが、社会的信用が公的に無い羊飼いが身内になることに何も感じないでいられるでしょうか。皆さんが会社の社長さんで羊飼いを社員に雇うでしょうか。その時代の羊飼いについての資料は少ないですが、社会的信用のないということでの羊飼いの方々の生きにくさを現代に置き換えて考えてしまいます。

 ただ、言えることはそのような社会的信用度の低い羊飼いを神様は選び、天使たちを通じてクリスマスの福音を伝えさせたということです。羊飼いは世の中から信用されずに疎外されていましたが、神様は羊飼いを選び全世界の人々に伝える大切なクリスマスのメッセージを託したのでした。神様の見方と人の見方は異なるのです。それまで寂しい思いをしてきた羊飼いはその神様の使命に飛び上がりたいほどのうれしい気持ちであったのではないでしょうか。

 皆さん、人々のあなたに対する見方と、神の見方は異なるのです。聖書はいいます。「人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル167節)人々があなたのことを外面や様々なことで意地悪く、また不当に低く評価したとしても、神様はあなたを異なる見方で評価してくださるのです。

 

  ②「しかし、夜中、羊を守る誠実な羊飼い」

 そのような社会的な信用度が低い羊飼いたちではありましたが、8節「羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた」とあり、彼らがそのような環境で職務に忠実であったことは覚えておかなければいけないと思います。人はその置かれた環境や職場、人間関係、家族関係など選べないこともあると思いますが、そこで腐っていてはチャンスを見逃すこともあるのではと思います。羊飼いたちが羊を放置、また眠っていては天使との出会いも失ってしまったのではと考えてしまいます。反社会的な犯罪的環境や、暴力的環境なら我慢することなく対処、もしくその環境から離れることが良いと思いますが、そうでないなら、その置かれている環境が選べないなら、腐らずに忍耐して忠実にすることがチャンスを見失わない道ではないかと思います。

 

  ③「天使から福音を預かる羊飼い」

 おそらく、今でいうところの3Kの仕事に忠実であった羊飼いたちは神様からクリスマスの福音を伝える使者として選ばれるのでした。

 その内容は、11節「あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです」と。イエス様は普通の人扱いされていない羊飼いたちのために主となり、メシアとなるために生まれてくださったと伝えたのでした。これは羊飼いたちに大きな感動を与えたと思います。神学者は「疎外された者たちのメシアであった」と言います。また12節の「飼い葉おけに寝ておられる」しるしとは、飼い葉おけは町中にあるのでイエス様を探し出す目印ではなく、イエス様がどのようなメシアなのかと言う象徴と言われています。それはイエス様ご自身が『いのちのパン』(ヨハネ6章)として、十字架で死なれることによって私たちの罪を赦してくださったことの象徴だからです。まさに飼い葉おけの中の「いのちのパン」となられたのでした。

 

 .「福音を聞いた人々のそれぞれの応答」

  ①天使のことばを聞いた羊飼い

 社会的地位の低い、疎外された人々の象徴とも言える羊飼いたちは、天使の言葉を聞いた時、「互いに話し合い」、「急いで行って」、「探し当てた」と積極的に聞きました。羊飼いは聞いた言葉の意味を、よく考え、そして速やかに行動に移し、熱心に探しました。その結果、世界で最初のクリスマスの最初の招待客となることができたのでした。

 

  ②羊飼いのことばを聞いた街の人

 しかし、神様の選びの民であったイスラエルの人たちは「羊飼いの話したことに驚いた」だけでした。彼らにとっては聞いて驚くだけで終わったのでした。

 

  ③羊飼いのことばを聞いたマリヤ

 マリヤは違いました。「マリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた」。神学者は「おそらくルカに伝えられた」と言い、聖書の記事となっていったと思われます。

 

 勧め)「クリスマスは誰のため」

 ① それは羊飼いのように疎外され、世間の評価の低い者のためでした。

 ② 置かれた環境や状況が悪くても腐らず、忍耐して、忠実にチャンスを待ちましよう。 

 ③ 聖書の御言葉が示されたならば、その言葉を自分のこととして受け止めてよく神様の御心を考

  え、御言葉に示されるままに従いましょう。