福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2016年11月)


以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。

福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2016年11月6日(主日礼拝)

1.テキスト 「第一コリント1318節」

2.タイトル 「愛のうちに歩みなさい」

3.中心聖句 (エペソ52節)

「愛のうちに歩みなさい。」

4.本文「愛のうちに歩みなさい」

 序)「この世の中に愛はあるのか

 なんか古い刑事ドラマの中のセリフに似ていますが、「愛」ということば自体は世界にあふれています。しかし、いじめ、自殺、ネグレクト、子殺し、戦争、難民と、世界に愛が存在しているのかと思うほど、愛とは真逆の世界が広がっています。本日は神様による愛のテストの話です。

本文)「愛のうちに歩みなさい」

.「愛のテスト」

 ある牧師の著書の中でこのように述べられていました。聖霊様は「私たちが自分では持っていない愛を働かせねばならないような位置に私たちを導かれる」と。すなわち、私たちは心の状態を厳しく試されるような境遇に立ち向かわされると教えられていました。

 神様は私たちが不親切な仕打ちに出会うのを許されるとか。あるいは最も気の合わない、一致しにくい人々と仲間にされるとか。逆に、敵と思える人々に不幸な、また困難な出来事が起こったことを聞かされ、私たちはそれが彼らには当然のことであり、彼ら自身が自ら招いた神の審判であると思うような誘惑を受けるとか。しかし、そのような時、聖霊様は、決して彼らをさばいてはならないとか、罪に定めるような思いを抱いてはならないと教えられるだけではなく、それ以上に彼らのために祈れと語られます。それが神様の御心ですと。

 このような時、私たちは聖霊様の導きに従えるでしょうか。私自身も正直に告白しますと、困難を覚えます。ある牧師もこのように言っています。「私たちにはそのように行う愛がなく」、「彼らの困難、苦しみを心地よく思うように誘われる」と。そして同時に愛することに「失敗したために、激しく自責と屈辱の念にかられる」と。神様は、本日の中心聖句のような愛を、私たちに求めておられますが、それに応じることは不可能であると、自分がクリスチャンなのに人を愛せないと、苦しみ自分を責めると、語られていました。では、私たちはどうすればよいのでしょうか。それはパウロのように自分に絶望し、神様の前に心からのへりくだり、神様の憐れみにすがるしかない自らを認めることです。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。」(ロマ724節)

 私たちが神様の前に降参するとき、いや降参して初めて、イエス様が私たちに触れられ、私たち自身とその状況を神様の栄光のために変えてくださるのです。その牧師は「私たちが自分から目を背け、主ご自身を見上げて、弱々しく力のないままに主にすがりつくときに、主の愛がこれを満たされることを知る」と。様々な試練と同様に、痛みと困難と悲しみの中で、神様を見上げ、神様に明け渡したとき、神様の愛と力が私たちをおおうことを経験するでしょう。

 

.「愛の試練の意味」

 なぜ、このような愛の試練が人に与えられるのでしょうか。特にクリスチャンに。その意味について、その牧師はこのように言います。「神が私たちについて持っておられる御思いを私たちに示すこと」だと。私たちは敵を愛する愛を自分の中には持っていません。それはイエス様にあって、また聖霊様の働きによってはじめて私たちから神様の愛が証されるものです。その愛は、神様は私たちが神様の敵として歩んでいる時、十字架でイエス様の愛を示されました。その愛が聖書から語られて、私たちは救われたのですよね。この神様の愛のまなざしを私たちも持つべきだというのです。それが伝道なのでしょう。それが教会の宣教であり、教会が成長する秘訣なのでしょう。その牧師も「御霊は、私たちが他の人々を見る場合、神ご自身がなされるように、彼らの現在の性質や個人的な価値のなさを見るのではなく、キリストに対する関係、特にキリストの恵みが彼らのうちに働いて、将来良くなる性質を見るように教える」と。神様のまなざし、イエス様の罪びとを見るまなざしを私たちクリスチャン、教会が学ぶためでもあるのです。

 そして同時に、それは私たち自身が神様からどの様に見られ、また愛されているかも知ることになるのです。私たちは地上では不完全です。それゆえ、理想の自分と現在の自分のギャップに苦しむこともあるでしょう。しかし、神様は常に現在の私たちを越えて、将来、恵みと信仰によって完成される私たちを見ておられるのです。イザヤも預言しています。「主は仰せられた。『まことに彼らはわたしの民、偽りのない子たちだ』と。こうして、主は彼らの救い主になられた」(イザヤ638節)63章で預言者イザヤは、エドム人への裁きとイスラエル人への神のまなざしと救いを述べていますが、しかしこの時代、イスラエルは神様に対して不従順でしたが、神様はイザヤを通してこのように語られたのでした。

 

勧め「愛のうちに歩みなさい」

① 神様は、私たちがイエス様の愛を求めるように試練を与えて導かれます。

② 私たちは自分が愛のない人だと知っても絶望せずに、神様を見上げましょう。人の働きが終わる時、神様の働きが始まる時でもあるのです。

③ 私たちは温かい神様のまなざしで救われたのです。ですから、私たちも同じ神様の温かいまなざしで家族を、親せきを、地域の人を、同僚を見ましょう。伝道はそこから始まります。


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葛西福音キリスト教会説教2016年11月13日(主日礼拝)

1.テキスト 「使徒の働き1414節」

2.タイトル 「新しい力」

3.中心聖句 (使徒の働き18節)

「しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」

4.本文 「新しい力」

 序)「この世の力」

 田中角栄「数は力」と言いました。この世を動かす三要素は「人」「もの」「金」だと言われています。しかし、聖書にはこのようにあります。(ゼカリヤ46節)「これは、ゼルバベルへの主のことばだ。『権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって』と万軍の主は仰せられる。」これは、ユダヤの人々が神様にその不信仰の罪を裁かれ、バビロン捕囚の後に、神の都エルサレムでの神殿再建の際に神様より与えられた、神様の力の約束のみ言葉です。

本論)「新しい力」

.「新しい力は人間的な力ではない」

 この聖霊が私たちに下さる力、霊的な力は人間的な力ではないのです。人間は様々な力を秘めた生物です。その一つが心の力です。NHKの番組で哲学者がブッダの教えを一言でいうと、人が置かれた現実を変える教えではなく、置かれた現実を楽しんだり受け入れたりする力を教えたものだといわれていました。これはすごい力だと私も感心しました。仏教が世界の三大宗教に数えられるはずだと感心しました。他にもことばによる雄弁や説得で人を動かす力もあります。アメリカ大統領選挙でもその語る言葉だけで、政治家でもなく、軍隊の経験もない人が初めて大統領になっています。また、技術の発明や、物事に熟練する素晴らしい力もあります。

 けれどもこれはイエス様が弟子たちに話された聖霊様による力ではありません。聖書の中にも、また教会の歴史の中でも先に述べた人間的な力が、逆に神の働きを妨害する多くの例が残念ながらあります。

聖書にはこうあります。(第一コリント12729節)「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。」

聖書は人間的な力を否定しているのではありませんが、人間が生きていくうえで、また教会が成長するためにはこの聖霊様がくださる新しい力が必要なのです。

 

.「新しい力は組織力や数の力ではありません」

 確かに、教会も人の集団である限り、組織力や人々の数で教会の行動力や教会の賑わいが変わることも事実だと思います。それが霊的な新しい力と相反するとか、両立しないものではないでしょう。聖霊様は教会や社会などの秩序や組織的な働きを通してお働きになることもあると思います。しかし、新しい力によらず、この世の組織力や人の数の力だけでは教会は生きているようで死んでいるようなものです。聖書にもこのようにあります。(黙示録31節)「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」

 ある牧師は新しい力を受けることをこのように勧めています。「私たちはどのような境遇にあっても、この力を持つことができる。そして極めて弱い教会、もっとも孤立した働き人、最も感化力のないキリストの働き人も、神の全教会のために祝福の器となることができる」と。

 

.「どうすれば新しい力を受けるか」

 どうすれば聖霊が下さる新しい力を受けることができるのか。それはイエス様が弟子たちに教えた言葉をただ信じて従うことしかないのです。イエス様を信じていない方は、イエス様の十字架が私の罪のためであったと、まず信じることが必要です。そしてイエス様を信じている人は先の4節で「エルサレムを離れないで・・・約束を待」つことです。弟子たちはどうしたでしょうか。まず第一には「エルサレムを離れない」ことです。私たちのエルサレムは、第一に神が私たちに与えられた「葛西福音キリスト教会」ではないでしょうか。弟子たちもエルサレムの一人の弟子の部屋、一説にはマルコの家といわれていますが、そこに信仰をもって熱心に集まりました。私たちも同じように礼拝と祈祷会に集まることを大事にしましょう。次に「約束を待つ」ことです。弟子たちは集まって「みなで心を合わせ、祈りに専念」しました。私たちの教会でも、みなで心を合わせて、祈りを中心とした交わりを大切にしましょう。

 救いは個人的な神様との関係の修復ですが、聖書は旧約聖書も新約聖書でも、祝福の秘訣である神様への礼拝と神との交わりは人々の集まりを前提としています。旧約聖書ではそれを共同体と呼び、新約聖書では教会、または群れと呼んでいます。ですから、教会での神を中心とした礼拝と交わりはクリスチャンの祝福に欠かせないものと言えるでしょう。

 

勧め「新しい力」

 ①それは人間的な力ではありません。ただし神様はそれをも用いられます。

 ②それは組織力や数の力でもありません。ただし、神はそれをも用いられます。

 ③新しい力は、神様を中心とした礼拝と交わりの中で、みなが心を合わせ、祈りを大事にする教会や群れに与えてくださる賜物です。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2016年11月20日(主日礼拝)

1.テキスト「使徒の働き23742節」

2.タイトル「新しい力の働き」

3.中心聖句(使徒の働き24節)

「みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。」

4.本文「新しい力の働きと源泉」

 序)「力任せではだめという例」

 最近、新しく買った鍵を壊すところでした。ついこの間、新しい鍵を買ったのですが、少し雨に濡れてしまい、そのまま放置していたら鍵穴が白っぽくなっていました。私がカギを使おうと鍵穴にキーを入れて回そうとすると硬くて回りません。私は鍵を使う用事があるので、何とかしようと力任せにキーを回そうとしました。そうするとキーの本体が少し曲がってしまいました。もう少し力を入れていたら、キーが鍵穴の中で折れてしまい、キーも鍵自体も壊してしまうところでした。一度頭を冷やそうと家に帰ってから、原因が雨によるさびであり、油を塗ってからキーを入れて回すと、最初は硬かった鍵も、最後は何とか全部回って使えるようになりました。力任せではだめなんですね。それは伝道も同じで伝道とは、聖霊様のプレゼントである「新しい力」の働きが大切なのです。

 

本論)「新しい力の働き」

 ①「罪を悟らせる力」

 ある牧師は言っています。それは『罪を悟らせる力』だと。『神が見ておられるように自分を見て、塵の中にまで』自らをひざまずかせる力だと。

 イエス様の弟子たちは五旬節(ペンテコステ)に不思議な体験をしました。聖書には『五旬節の日になって、みなが一つ所に集まっていた。すると突然、天から、激しい風が吹いて来るような響きが起こり、彼らのいた家全体に響き渡った。 また、炎のような分かれた舌が現れて、ひとりひとりの上にとどまった。すると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話しだした。』(使徒の働き214節)

 しかし、エルサレムに滞在していた敬虔なユダヤ人たちは、聖霊様に満たされた弟子たちを見て、『ガリラヤの人ではないか』とバカにするだけでした。当時、ガリラヤ地方の人を、宗教国家イスラエルの首都エルサレムに住む人は見下げていたようです。

 そのような、世界各地から巡礼に来て、滞在していた敬虔なユダヤ人に対してペテロは旧約聖書を引用して説教を行いました。その結果ユダヤ人は、『人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った』(37節)と聖書はいいます。

 新しい力が働くとき、私たちが救おうと思う愛する人々を、一時的には不愉快にさせるとしても、魂の深いところでは正しいことを認め、彼らに自らの悪かったことを悟らせるのです。彼らの良心が覚醒させられる。まさに認罪の力です。

 『新しい力』は私たちにもペテロのような働きができる者とさせてくださるのです。

 

 ②「心に主を現実のお方とする力」

 また、先ほどの牧師は、『新しい力』は私たちを通して、人々の心に主との出会いを現実とさせる働きがあると教えています。敬虔なユダヤ人がこのような神を恐れ、自らの罪を認めさせたのは、ペテロの説教の力ではありませんでした。それはペテロが『聖霊に満たされ、御霊が話させてくださる』(4節)説教、ただペテロは通りよき管としての説教であって、まさに霊的な意味でイエス様とユダヤ人たちとの出会いが生まれたからではないでしょうか。それはペテロ自身も体験したことでした。聖書にはこうあります。(ルカ5411節)『シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われた。するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」そして、そのとおりにすると、たくさんの魚が入り、網は破れそうになった。そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と言った。それは、大漁のため、彼もいっしょにいた、みなの者も、ひどく驚いたからである。シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。』とあります。

 ペテロはイエス様との出会で、罪を認め、何もかも捨てて、イエス様に従ったのでした。聖書にはイエス様と出会った人々の人生が180度変わった人が登場します。聖書にもマタイ、パウロ、ザアカイもそうでした。このような新しい力の働きはペテロだけではなく、私たちにも与えられているのです。皆さんはお気づきではないかもしれませんが、私たちの洗礼式の霊的な恵みである聖霊のバプテスマについて聖書はこのように言います。(ガラテヤ327節)『バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。』

 私たちはペテロたちのような不思議な体験を通してではありませんが、信仰によって教会の洗礼を通して受けているのです。私たちは御様やイエス様の通りよき管としてこの世の人々に向き合っているのです。

 

 ③「人々を決心に導く」

 最後にその牧師は、『聖霊の力は、人々を導いて神の側に立たせ、サタンと戦う軍勢に加わらせ、罪の習慣を捨てさせ、永遠に続く大決心をさせる』と。

 エルサレムでペテロの説教を聞いた敬虔なユダヤ人たちはユダヤ教でした。しかも、彼らの中に何人かは、イエス様の裁判に立ち合い、その処刑に賛成し、またイエスの十字架での死を見たものもいたでしょう。そのような彼らが『バプテスマを受け、その日、三千人ほどが弟子に加えられました。そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていたのでした。まさに聖書に言う通りです。『その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます』(ヨハネ168節)

 私たちが伝道して相手を説得し、決心させるのではなく、聖霊の『新しい力の働き』により決心に導いていただくのです。

 

勧め「新しい力の働き」

 本日は何か肩の力が抜けるようなお話であったかと思います。聖書は私たちの伝道が人間の力によるのではなく、聖霊様の働きである「新しい力」に頼って行うものだと教えていると思いませんか。

「罪を悟らせる力」自らの悪かったことを悟らせるのです。彼らの良心が覚醒させられる。まさに認罪の力です。

②「人の心に主を現実のお方とする力」私たちは御霊様やイエス様の通りよき管としてこの世の人々に向き合っているのです。

「人々を決心に導く力」私たちが伝道して相手を説得し、決心させるのではなく、聖霊様の『新しい力の働き』により決心に導いていただくのです。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2016年11月27日(第一アドベント)

1.テキスト「マタイ11825節」

2.タイトル「クリスマスは愛の記念日」

3.中心聖句(マタイ119節)

 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」

4.本文「クリスマスは愛の記念日」

 序)クリスマスのテーマは「愛」

 クリスマスのテーマは愛です。ですから、人々はクリスマスに大事な人にプレゼントを渡したりします。しかし、この愛は神の愛であり、キリストの十字架で流された血潮に表される愛なのです。NHKの海外ドラマで、魔法(自己中心)には対価(報い)が必要であり、愛には自己犠牲が必要だと言われていました。そして聖書と教会の語るクリスマスの愛は、キリストの十字架での自己犠牲を象徴するものなのです。クリスマスの飾りもその象徴なのです。この意味を知れば皆さんのクリスマスの過ごし方も変わるかもしれませんね。

本論)「クリスマスは愛の記念日」

 Ⅰ.「律法の文言にこだわる正しさ」

  ①ユダヤ社会の婚約は結婚と同じ

 婚約という制度のとらえ方は、ユダヤと日本では大きく異なります。それを知らなければ、聖書が何を言わんとするか、を読み違えるかもしれません。日本では結婚(法的には婚姻)から法律の縛りが始まります。ですから、婚約は当人または、親族間での合意で行われ、婚約者以外の人を愛し男女の関係になれば、当人同士、または親族での話し合いか、けんかになるでしょうが婚約を破ること自体を罰する法律はありません。しかし、結婚は日本国の法律の制度でもあるので、それを破れば、当人や親族の問題では収まらず、法律に違反しているので裁かれます。

これは日本の話ですが、ユダヤでは婚約は結婚と同じ意味でした。その証拠に、聖書には、19節で「夫のヨセフ」、20節で「妻マリヤ」と呼んでいます。ですから、二人が結婚して正式な夫婦生活を始める前に、マリヤさんが「身重になった」ことは重大な問題でした。特に、18節の「わかった」は物事を知るということ以上に強い意味があり、新聞や週刊誌の見出しの「大臣と企業の癒着発覚」のような使い方をするような言葉です。ここに夫のヨセフの非常な驚きが表されています。まさに、まさかあの愛するマリヤが、信じていたのに裏切られたと。

 

 ②律法の文言による正しさ

夫のヨセフは19節で「夫のヨセフは正しい人であって」とありますが、もし、それが律法の文言にこだわる正しさであったならば、どうなっていたのでしょうか。律法にはこうあります。「ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、あなたがたは、そのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。もし男が、野で、婚約中の女を見かけ、その女をつかまえて、これといっしょに寝た場合は、女と寝たその男だけが死ななければならない。その女には何もしてはならない。その女には死刑に当たる罪はない。この場合は、ある人が隣人に襲いかかりいのちを奪ったのと同じである」(申命記 222326節)。マリヤは町の門ところに連れ出されて石で打たれ、死ななければなりませんでした。

 

 Ⅱ.「律法の愛による正しさ」

①ヨセフの愛による正しさ

 しかし、ヨセフはマリヤを人々の前に突き出し、公開の場で石打の刑で死なせませんでした。聖書には「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」とあります。ヨセフの正しさは、愛による正しさだったからでした。イエス様も律法学者の質問に対して答えられました。マタイ223640節、「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」。律法は愛によって守られなければならないのです。

 

  ②愛には自己犠牲が伴う

 ここで「内密にさらせようと」とありますが、婚約の解消には離縁状が必要なのですが、当時のユダヤ社会は相手の不貞は石打の刑で死亡しますので離縁状は必要ありませんが、離縁状を出して別れるには、それ相当の相手の落ち度がなければなりません。しかし、まさか、マリヤのお腹が大きくなってなどと書けるはずもありません。それで「内密に去らせようと決めた」のです。しかし、この決心には、このことが公になったとき、ヨセフ自身にも罰が及ぶ可能性を含んでいたと思われます。なぜなら、ヨセフは律法の文言を守らなかったからです。  

 皆さん、愛には自己犠牲が伴うのです。これは、皆さんの夫婦生活でも、親子の間でも同じだと思います。自己犠牲を伴わなければ愛はそこに存在していないのではないでしょうか。クリスマスにこの聖書の個所が読まれる時、私たちはキリストが私たちの罪のために十字架で血を流してくださったことを思い起こすでしょう。ですから、「赤」はクリスマスカラーと呼ばれるのですね。「緑」は十字架で罪許された人がイエスの復活のいのちによって生きる、新しい生き方を象徴しています。また、クリスマスプレゼントもそうですね。

 

  ③イエス様の愛による正しさ

 ヨセフとマリヤの愛の物語がまさに前振りとなって、21節「その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」と続きます。人々が罪を犯し天国へ行くことができず、また神様の豊かな祝福を受けることができずにいたが、イエス様が十字架で血を流され、私たちは天国への切符と神様の豊かな祝福を受けることができるようになったのです。聖書も「この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています」(エペソ 17節)といいます。私たちは十字架を信じて罪許されて救われ、そしてその後の人生をキリスト共に生きていくのです。23節の「神は私たちとともにおられる」という解説はそのことを言っているのです。

 

すすめ「律法の愛による正しさ」

 クリスマスのテーマは「愛」です。聖書は正しい生き方を教え、実行せよと言っています。そしてそれは「愛による正しさ」だとヨセフのマリヤの問題への対処は教えていたのではないでしょうか。皆さんの人間関係にも当てはめて考えていただきたいと思います。また同時に、私たちの罪の問題に対しても、神は愛をもって、キリストの十字架を信じる信仰で罪を赦して救ってくださいます。

 

① 私たちの罪を赦していただくために、神の愛そのものである、キリストの十字架を信じて罪を赦していただき、救いを受けてください。

② また、救われた私たちが主と共に生きる日々を大切にし、主からの守りと豊かな祝福を味わう日々でありますように。

 

 ③ キリストの十字架に神様の愛が表れているように、またヨセフのマリヤへの愛には自己犠牲が伴ったように、私たちの愛にも言葉だけでなく、自己犠牲が伴いますように。