福音伝道教団

葛西福音キリスト教会過去説教(2016年10月)


以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教2016年10月2日

1.テキスト「第一コリント1212から31節」

2.中心聖句 (第一コリント1227節)

「あなたがたはキリストのからだであって、

ひとりひとりは各器官なのです。」

3.タイトル「互いを労わる」

4.本文「互いを労わる」 

本論)「互いを労わる」

 聖書はこの個所で、体の例を用いて賜物を与えられている一人一人の信者の関係を教えています。

①「聖霊が私たちを一つにされる」(121213節)

「ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。」

 自己中心な人間の集まりでは、神様を満足させるような、また教会と呼ばれるような一つとなることができません。しかし、聖霊様はキリストのからだである教会の一人一人を、霊的に有機的な統一した一つのからだとならせるのです。それは私たちのからだのように調和したものなのです。ですから、「ユダヤ人と異邦人、自由人と奴隷」という互いに交流することのない人々が、バプテスマ、すなわち、イエス・キリストの十字架への信仰によって一つとなることができるのです。

 

②「不要な部分はない」(14から20節)

 しかし、私たち人間は能力にも、体力、知力にも差があります。その差は人間的な努力や、何らかの人間の忍耐力、理解力では必ずしも越えられないものもあるでしょうし、お互いを受け入れ、理解することが困難なこともあるでしょう。それが原因で教会が分裂することもあるかもしれません。

 しかし、聖霊様の働きで霊的に一つとなったキリストのからだなる教会は人間のからだのような統一した群れとさせられるのです。そのことを15節から17節の中で手や足、耳や目で教えています。(1215から17節)『たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

 18節を読みますと、そもそも私たちひとり一人の違い、個性は神のみこころによるものだと教えられます。(1218節)『しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。』

 

③「多様性と協調性が強み」(21から31節)

 私たちは自分のことでも正確に知ることはできないのではないですか。それなら他人のことなど知ることはできないし、なおさら、ある人は教会に必要だけど、この人はいらんな、などとは言えないはずですよね。聖書は22節によるように、かえって弱いとみられる器官がなくてはならないと言っています。

1222節)『それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。』

 そのような一人一人の違いがある理由は何でしょうか。聖書は25節で、「互いにいたわり合うため」と教えます。

 (1225節)『それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。』

 ですから、神の御心を探り、それを行おうと考えている私たちも「互いにいたわり合う」教会と聖霊様の働きの恵みの中で、そのようにさせていただこうではないでしょうか。

 

勧め 「互いを労わる」

 私たちは、一つの部分が苦しめばすべてが苦しみ、そのような一人ひとりでありたいと願います。これがこの聖書の勧めでありますし、また神様から皆様への勧めてもあるのです。ですから、イエス・キリストを信じて罪の問題を解決していただき、そして聖霊様の働きを信じて、聖書のみ言葉とともに働かれる聖霊様の導きに従うならば、私たちにあらゆる人間関係は改善されるのです。夫婦も家庭も、職場も社会も、そして世界もです。


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葛西福音キリスト教会説教2016年10月9日(主日礼拝)

1.テキスト「イザヤ665から14節」

2.中心聖句 (イザヤ6613節)

「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、

エルサレムであなたがたは慰められる。」

3.タイトル「神の慰め」

4.本文「互いを労わる」

 序)神の慰めは教会の力です。

 先週の駅前でのトラクト配布はお疲れさまでした。どうでしたか、中々受け取られる人も少なかったでしょうか。しかし、私たちの主は真実なお方であり、憐れみ深いお方です。ですから神様は必ず、皆様の奉仕に豊かに報いてくださるお方です。本日も礼拝後に駅前でトラクトを配布しましょう。(イザヤ6613節)「母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰め、エルサレムであなたがたは慰められる。」とありますが、イザヤ書は新旧約聖書を要約した書簡といわれています。そしてこのイザヤ66章は新約聖書との関係があると言われています。まさにイエスの十字架と聖霊降臨による救いときよめの御業の完成と関連があるのです。イザヤ書時代のイスラエルとユダの状況は第二列王記15章から21章で述べられていますが両国とも外国との戦いに負け、捕囚とされ、民は外国の地に強制移住されます。イスラエルの繁栄は主なる神様からの一方的な憐れみで、主の目にかなわない王のため、国はアッシリアへの捕囚となり、その末裔はサマリア人と蔑視されます。残されたユダもバビロン捕囚の憂き目を見ますが、主の目にかなう王の存在と、ダビデへの神様の約束のゆえに、おおよそ70年後に国が回復される約束されます。この慰めはダビデへの約束の慰めなのです。外国で捕囚の民が故郷の首都エルサレムで慰めを受けられるのです。なんという深い慰めでしょうか。この慰めを私たちも受けることができるのです。イエスの十字架を信じ、聖霊に満たされることを望み続けるなら、私たちの地上の労苦もまた、神様の豊かな深い慰めを受けることができるのです。

 

本論)「神の慰め」

.「慰めは、そこに困難な状況を想定しています。」

 ある牧師は、「慰めといえば、そこに困難があることを想定している」といいます。しかし同時に、困難がない生涯が、私たちにとって本当に幸せな生涯なのでしょうかとも問いかけていました。ことわざに「若い時の苦労は買ってもせよ」ともあります。聖書にも(第一コリント1013節)「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」は有名です。また(ヤコブ112節)「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。」。(ペテロ17節)「あなたがたの信仰の試練は、火で精錬されつつなお朽ちて行く金よりも尊く、イエス・キリストの現れのときに称賛と光栄と栄誉になることがわかります。」との約束もあります。まさに私たちの地上での生涯に試練はあるものなのです。

しかし、だからこそ、神のことば聖書は私たちに試練に耐えられるように祝福の約束を教えてくれています。試練は一時的に私たちを悲しめ、苦しめますが、神の愛と真実を経験する機会となるのです。私たちの流す涙は慰め主なる主の優しい御手に拭われる機会となるのです。

 

.「慰めは困難に比例します。」

 また、ある牧師は「慰めは困難に比例するものである。喜びと悲しみには不思議なつり合いがある」と証します。また、聖書も言います。(Ⅱコリント15節)「私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。」と。また他の先生の証にも「神は初めに私に与えられた困難を、私の生涯を通じて気の毒に思っておられたかのように、常にこれを埋め合わせようと努めておられるようであった」とありました。また、聖書も(Ⅱコリント417節)「今の時の軽い患難は、私たちのうちに働いて、測り知れない、重い永遠の栄光をもたらすからです。」といいます。

 どんな時も真実な主に信頼しましょう。主は十字架の試練で苦しまれましたが、復活され栄光をお受けになられました。私たちも試練を恐れず、一時的には苦しみ、悲しみのゆえに涙を流すこともあるかもしれませんが、み言葉を固く握って主なる神様に信頼しましょう。

 

.「それゆえ、困難はしばしば歓喜の時となります。」

 それゆえ、イエス様の十字架を信じて救われ、クリスチャンとされた私たちには、困難はしばしば歓喜の時となるのです。イエスの弟子たちも証しています。アンテオケで、なんと神を敬う貴婦人たちや町の有力者たちから街を追い出された時にも(使徒の働き1352節)「弟子たちは喜びと聖霊に満たされていた。」のでした。また(Ⅱコリント610節)「悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。」そのような豊かさをこの世に証しましょう。

そして最後に聖書から、あの祭司の庭で逃げ出した不信仰であったペテロは(Ⅰペテロ413節)「キリストの苦しみにあずかれるのですから、喜んでいなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びおどる者となるためです。」といいます。その言葉通り、復活されたイエス様から受け入れられ、使命を与えられ、御霊に満たされた彼は伝説ではキリストのみ名のためにローマで殉教したといわれています。

 

祈り「神の慰めを受け続けるために」

これからのトラクト配布でもいろいろなことがあるでしょう。また、「秋の音楽礼拝」でも様々なことがあるかもしれません。しかし「神の慰め」を知る私たちはどのようなことも恐れないようにしましよう。神様を信頼し苦しみと悲しみの試練の先には、神様の慰めと、神様の栄光の勝利を私たちは味わうことができるのですから。

 

また、この「神の慰め」はイエス様の十字架を信じ、聖霊の働きの賜物なのです。どうか、私たちの愛する家族や友人のために祈りましょう。


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葛西福音キリスト教会説教2016年10月16日(音楽礼拝)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネの福音書3章16節)

この言葉は聖書全体を一言で言い表すことばと言われていますが、この言葉からわかることは第一に、神は世を愛されるお方であること。第二に、神様を信じなければ人は滅びること。第三に信じるならば永遠の命をプレゼントとしていただけることを教えています。

聖書の別な箇所には「神は愛です」(ヨハネの手紙第一4章16節)と書かれています。神様の愛を皆さんにお知らせしたい、またそのことを信じていただきたいと願っています。それは神様を信じた人は、神様の愛を知り、信じることで、人を愛することができるようになるからです。その代表的な人物は、インドのカルカッタで貧しい、必要とされることのない人々のために人生をささげ、「神の愛の宣教者会」を設立したマザーテレサです。

しかし、神様を知らない人、神様を信じない人は、人を愛することが難しいと聖書は教えています。元々、神様が私たち人間を創られたとき、人間は互いに愛し合う存在としてこの世界にお創りになられと、聖書は言います。最初の人、アダムさんは妻のエバさんを自分自身のからだのようだ、他人とは思えないといっていましたが、神様に罪を犯した後は、その責任を「この女」が私を誘惑したと、犯罪者を警察に突き出すように言い放ちます。二人は愛し合う夫婦だったのに、問題が生じたとき、相手の責任を責めるばかりでした。この時、エバさんだけでなく、アダムさんにも夫の責任があったのです。これはアダムとエバさんだけの話ではなく、この全世界の話であり、身近な皆さんの夫婦、親子や友人関係、会社の人間関係の話でもあるのです。愛があれば他人の苦しみや悲しみに同情して助け合う社会が広がります。それはケンカやいじめ、戦争のない平和な世界を愛が生み出すからです。しかし、愛のない世界は、人々は憎しみと争いでお互いを滅ぼし尽くしてしまう世界です。

また、聖書は(ヘブル 9:27)「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」といいます。どんな人も死から逃れられないように、すべての人が神の裁きの前に立つときが来るのです。

ですから、聖書は私たちに滅びないために神様を信じなさいと教えているのです。神様のひとり子とはイエス・キリストのことです。神様はひとり子のイエス・キリストを人としてこの世界に送られました。そして2000年以上が過ぎた今日でも、クリスマスには世界中でイエス・キリストの誕生を祝っています。イエス・キリストは十字架にかかって死なれました。実は、イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのは、私たちが受けなければならない罪の刑罰を身代わりに受けるためだったのです。そのイエス・キリストを信じる人は滅びることなく永遠のいのちを与えられるのです。

 永遠の命を持つ人は、地獄で自分の罪のために永遠に苦しむ必要がなくなり、天国へ行くばかりではありません。マザーテレサのように神の愛を持ち、その愛に生きる人に変えられるのです。神様を信じる人の人生は、天国の前味とか天国の予告編、とか天国試食タイムともいえるかもしれません。

 

勧め

イエス・キリストを信じましょう。

①あなたは自分自身が罪人であることを認めることができますか。
「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」(ローマ人への手紙3章23節)
②全ての罪を神に謝罪しましょう。
「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(ヨハネの手紙第一1章9節)
③イエス・キリストを信じます、と神に祈りましょう。*下記「祈り」参照
「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。」(ローマ人への手紙10章10節)
④イエス・キリストを第一とする生活へ。
「神の国とその義とをまず、第一に求めなさい。」(マタイの福音書6章33節)

 

祈り

天の父なる神様。

 

私たちは、今日まで神様であるあなたに背き、自分勝手に生き、罪の中を歩んできました。私たちは今、自分の罪を認め、すべての罪を悔い改めます。
 私たちは、御子イエス・キリスト様を、私の受けるべき罪の刑罰を身代わりに受け、十字架にかかって死なれ、三日目によみがえられた救い主と信じ受け入れます。また、私の人生の主として私の心の王座にお迎えいたします。
 どうか、私たちの罪を赦してください。永遠のいのちをお与えください。これからの私たちの人生をすべてお委ねし、お導きください。私たちが自我を捨てて、喜んでみことばに従う者にしてください。主イエス・キリスト様の御名によって真心からお祈りいたします。  アーメン


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葛西福音キリスト教会説教2016年10月23日(主日礼拝)

1.テキスト「マタイ223440節」

2.タイトル「愛は律法を全うします。」

3.中心聖句(Ⅰヨハネ416節)

「愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。」

4.本文「愛は律法を全うします。」

 序)どうすれば交通事故は無くなるのか。

 どうすれば、交通事故は無くなると思いますか。警察の取り締まりを厳しくしましょうか。違反者の罰と罰金を重くしましょうか。また免許更新時の教育に悲惨な交通事故の写真を見せましょうか。しかし、警察の目を巧みに逃れる悪質なドライバーには効果が薄いでしょうし。免許更新時の教育ビデオの効果も効いて、一か月くらいではないでしょうか。私は問題の解決は、今日のイエス様の教えにあると思えるのです。皆さんはどうでしょうか。

預言者イザヤは北イスラエル王国の人々を批判します。(イザヤ2810節)『戒めに戒め、戒めに戒め、規則に規則、規則に規則、ここに少し、あそこに少し』。規則のために規則を守るだけでは不十分だと、神様は預言者イザヤを通して語られました。何のために規則はあるのでしょうか。テレビの番組で、その理由は規則を守ることが人や社会に大きな利益をもたらしていること、また守る人自身が利益を得ていることを知ることと言っていました。それがなければ、規則のために規則を守るだけであるならばむなしいのではないでしょうか。

 

本論)「愛は律法を全うします」

.「弟子たちはどのように聞いたのか」

 これはある有名な牧師の著書にありました。言い伝えによれば、使徒ヨハネが年老いて主に召されるのを待つばかりであったころ、日曜日のたびにエペソ教会の講壇に立って、集まってきた人々の顔を優しく眺めては、「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう」と言って座るのを常としていたそうです。教会の兄弟姉妹たちがそのほかのことを何も言わないのはなぜかと問うたところ、「ほかには何も言うことはない。これがすべてである。なぜなら『愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられる』(第一ヨハネ416節)から」と答えたというのです。ヨハネは聖書にも(Ⅰヨハネ53節)「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。」といい。また隣人愛についても(Ⅰヨハネ323節)「神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。」と記しています。

 パウロもまた(ロマ1310節)「愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。」と記し、人を愛する者は神の律法を成就していると教えます。今日司会の方に拝読いただいた聖書にも、イエス様ご自身が律法の全体は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という一語に尽きると教えてくださっています。まさに愛は聖書の中心といえるでしょう。

 

.「愛はどれほど重要なのか」

 イエス様は愛を一番にあげられました。またパウロもヨハネもそうでしたが、しかしほかにも大切なこと、大きな働きがあると思いませんか。たとえば祈りと信仰による大いなる奇跡。これは神の栄光を表すのではないでしょうか。それを一目見た人々は神のみ名をおそれ、神の御名を称えるのではないでしょうか。また自分を全く捨てて奉仕することも重要だと思いませんか。聖書を深く広く知ることも大切といわれれば否定できないと思いませんか。確かに一つ一つは大切な奉仕の賜物ですが。パウロは第一コリント1213章で愛はすべての賜物よりも卓越したものだと教えています。愛はあらゆるものに勝る、奇跡をおこなう力や人の及び難い深い知恵よりも勝る、最も良い道であり、これを除いては、その他のすべてはただ(Ⅰコリント131 節)「やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです」と教えています。

 ですから、私たちは愛を基本に生きるクリスチャンであり教会でありましょう。例えば車を運転するとき、人や社会を愛する人はマナーとモラルも当然持つはずですから、交通規則はそのための手段となります。たまにうっかりでミスはあっても、そのような人の運転には優しさが見て取れるのではないでしょうか。しかし、取り締まりをおそれて交通規則を守る人の運転は危険ですね。お巡りさんが見ていないときには無茶をして、事故で人を傷つけることもあるのではないでしょうか。

 ですから、私たちは愛を一番大切にしましょう。また愛が常に私たちの基本でありたいと願います。

 

.「愛はクリスチャンの完成に必要です」

 コロサイ人への手紙でパウロは、イエスキリストを信じ、新しく生まれ変わったクリスチャンのきよい性格について教えています。すべての古い着物を脱いで、きよめられた衣を着せられた後に、すべてのものの上に愛を加えるように教えています。(コロサイ314節)「そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです」と。その当時、帯がなければ、どんな美しく高価な着物であっても、はだけたり乱れて、人々の笑いものになるでしょう。同じように愛は、ほかのすべての着物を、それぞれの場所に保ち、それが落ちないようにされます。このように愛が欠けるならば、信仰も奉仕も無効になると思われませんか。パウロが教えるように「愛は結びの帯として完全なもの」だからです。

 

勧め「愛は律法を全うします。」

 

 本日は愛の大切さについて聖書から教えられて参りました。来週は、愛は神からいただく賜物だということを学びたいと願っております。それは人が愛を失っているからです。イエス様にあるのでなければ、聖霊様に満たされることなくして、愛は人にはないのです。今週一週間、愛について考えてみていただけないでしょうか。しかし、皆さんは違います。イエス様を知り、信じておられます。イエス様は皆さんの中に住んでおられます。聖霊様は皆さまに満ちておられるからです。


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葛西福音キリスト教会説教2016年10月30日(主日礼拝)

1.テキスト「ルカ17110節」

2.タイトル「愛を増し加えてください」

3.中心聖句(ルカ175節)

「私たちの信仰を増してください。」

4.本文「愛を増し加えてください」

 序)「はじめに」

 ルカ171から10節は、教会役員とか、教会で指導的立場に立つ人への警告といわれています。私は、すべてのクリスチャンが神に対してどのように生きるのかということへの警告だと思います。

 本日はその中から、「愛」について学びたいと願っております。聖書は愛についてこのように言っています。イエス様は弟子たちにこのように命じました。「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ1334節)。他にも151217節で繰り返し、兄弟姉妹の愛を命じられました。そして神に対する愛については、「イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます」(ヨハネ1423節)ではこの愛はいかなる愛なのでしょうか。

 

本文)「愛を増し加えてください」

.「真実の愛は神様からの賜物」

今日のテキストで、イエス様の弟子たちはおかしなことを言っていますね。イエス様が人々を赦しなさいと命じられると、「私たちの信仰を増してください」と。弟子たちは人を赦す愛が信仰によって神様から与えられる恵みだと知っていたからではないでしょうか。

ある牧師は著書の中で、「愛というものは人間本来の性質ではなく、神の恩寵の直接の賜物であることを聖霊に教えられなければならない」と。こういわれて皆さんも、私も、母性愛がある、夫婦兄弟友人の愛もある、慈善事業家の存在もあるじゃないかと言われるかもしれません。確かにそのような尊いものがあるのも事実でしょう。しかし、人間の愛には限度があるのも事実ではないでしょうか。

聖霊様が教えてくださる愛は、十字架で私たちに示された神様の愛です。聖書にはこうあります。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(Ⅰヨハネ410節)人は神様を愛さずに罪を愛して生きてきたのに、イエス様は私たちの罪の贖いのために十字架で苦しみ、血を流され、命を捨ててくださいました。聖書がいう愛は、この十字架の愛です。何の価値のない者、愛らしくない者、愛のない者を愛する愛です。自らの敵をも愛する愛です。私たちはこの愛を、自己中心の心から絞り出すことも、意志の努力をもって造ることもできないのではないでしょうか。

しかし、恵み豊かな神様はその愛を私たちに賜物としてお与えくださると聖書でお約束してくださっているのです。ですから私たちは、自分がこれを必要としていることを自覚し、すべてを投げ出して神様にゆだね、これを受けることを心に願うべきなのです。聖書は愛が賜物というのなら、受ける私たちのほうに何か功績があって与えられるものではないでしょう。ただ、神様の前にひざまずくような、へりくだった、謙遜な心で祈り願うことが大切でしょう。

 

.「愛の賜物は信仰によって」

 この神様の愛は、ほかのすべての霊的賜物と同じように、信仰を働かせることが必要となります。ヨハネも「私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです」(Ⅰヨハネ419節)。また、「私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます」(Ⅰヨハネ416節)このようにヨハネは愛が神様との関係で存在することを教えています。私たちが神様を愛する前に、まず神様が私たちに対して持っておられる愛を信じなければ、私たちのうちには発生もしないし、存在しないと教えています。私たちは神様からの愛を大胆にいただくために信仰を働かせましょう。そうするならば、神様への愛は兄弟姉妹への愛ともなります。「イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。」(Ⅰヨハネ51

それで、弟子たちは自分に被害を与える者を赦せと言われ、「私たちの信仰を増してください。」と自らの愛の限界を自覚するがゆえに、信仰によって神の賜物としての愛を願ったのではないでしょうか。

 

.「愛に生きるとは、キリストが生きること」

 愛の秘訣を簡単にいうならば、「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです」(ガラテヤ220節)と先ほどの牧師が著書の中で言われていました。また、魂はまったくキリストにより頼み、聖霊を受けなければと。聖書が「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける」(ヘブル810節)と言われているように、私たちの心が新しくならなければ愛することはできないのです。愛することは大事だというお題目を心の外の頭の知識、この世の常識として持っていても、知っていても、人は実行できないのです。そのためにイエス様は私たちの住む世界に来られたのです。クリスマスにはイエス様の来られたことを記念してお祝いしています。だからクリスマスは愛のお祭りといえるでしょう。

 

祈り「愛を増し加えてください」

私たちも弟子たちのように「私たちの信仰を増してください」と、イエス様にお願いしましょう。そうでなければ、真実の愛、神様の愛が私たちのうちにないのです。また、そうでなければ、イエス・キリストは私たちのうちにはお宿りにはなられないと聖書も言います。ですから本当の愛を持たない私たちは、神様から愛の賜物をいただくために、愛のない自らを認め、へりくだり、そして神様から愛されている者として、大胆に求めましょう。そうするならば、神様は必ず真実の愛を私たちに賜ってくださるお方です。また、同時にそのように信仰を働かせる人は、聖霊に満たされる人であり、イエスがうちに住んでいてくださる人であり、兄弟姉妹を愛する人でしょう。