福音伝道教団

葛西福音キリスト教会                                                       聖書のお話し


メッセージの音蔵の紹介

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以下に葛西福音キリスト教会で語られた説教をご紹介します。


福音伝道教団

葛西福音キリスト教会説教 「神の福音掲載分」

テキスト『ヨハネ20章24から29節』

タイトル『見ないで信じる幸い』

中心聖句『見ずに信じる者は幸いです。』(ヨハネ2029節)

 

Ⅰ『見えないものを信じることの難しさ』

 目に見えないものを信じることは難しいですね。1897年9月21日、ニューヨーク・サン新聞社説に、8歳の少女から届いた質問と、それへの返事が掲載されました。その質問は『友達がサンタクロースはいないと言うのです。』というものでした。3月20日発行の神の福音掲載文書としては季節外れな感じもするでしょうが、イエス様の側近ともいえる12弟子のひとり、トマスさんも『私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません』と言ったと聖書に書かれています。ですから、『見えないものを信じることの難しさ』へのいい例だと思い、ご紹介させていただきました。

 

Ⅱ『大切なものは見えない』

新聞記者は8歳の少女に丁寧、かつ理解できる言葉でこのように答えました。『それは友達の方が間違っているよ。きっと、何でも疑いたがる年頃で、見たことがないと、信じられないんだね。自分の分かることだけが、全部だと思っているのだろう。でもね、ヴァージニア、大人でも子供でも、何もかも分かるわけじゃない。サンタクロースはいるんだ。愛とか思いやりとかいたわりとかがちゃんとあるように、サンタクロースもちゃんといるし、そういうものが溢れているおかげで、人の毎日は、癒されたり潤ったりする。もしサンタクロースがいなかったら、ものすごくさみしい世の中になってしまう。』と。多くの方が読まれたであろうフランス人の飛行士であり、小説家でもあるアントワーヌ・ドサン=テグジュペリ小説『星の王子様』の中にも『大切なものは見えない』との言葉があります。聖書も『私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。』と言います。聖書の神様も目に見えないお方ですが、私たちは教会の礼拝の中で、また聖書を読むとき、祈りをささげるときに、神様が私たちの心に平安や信仰の勇気を与えてくださることを経験するのではないでしょうか。

 

Ⅲ『神の愛は、イエス様の御傷に示された』

神様は目には見えないお方ですが、私たちを誰よりも愛していてくださり、私たちの罪を赦すために、神の御子、イエス様を十字架につけるために地上に送ってくださいました。聖書は言います。『私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。』。トマスは『私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません』とイエス様の十字架での御傷を確かめることを求めます。ここでトマスが求めたイエス様の傷は、トマスを含めた全人類への神様の愛の証であり、また罪の赦し、救いの証でもありました。聖書はイエス様の御傷について言います。『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。』。

 

Ⅳ『イエス様を信じましよう。』

 イエス様は、8日後に再び弟子たちのいるところに来られ、トマスに会われました。それから『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。』と言われました。その時、トマスはイエス様に大切な信仰の告白をしました。『私の主。私の神。』と。トマスは十字架で私たちの罪の赦しのために血を流され、いのちを捨てられ復活されたイエス様と出会ったとき、大切な信仰の告白をしたのでした。それは、私は主なるイエス様に従います。そして私の神様として信じます、と信仰の告白をしたのでした。イエス様はトマスの信仰の告白を聞いてこのように言われました。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」と。この言葉は、今、私たちに向けて語られています。皆さんは、どのようにイエス様が語られた、この聖書のみ言葉を聞かれるでしょうか。あの8歳の少女は、その後、教師として約40年務めたそうです。おそらく見えないものを信じる大切さを子供たちに教えたことでしょう。皆さん、神様は目には見えませんが『見ずに信じる者は幸いです。」と聖書は言います。どうか、イエス様を救い主として、信じ、そしてイエス様に従ってください。そうすればあなたは幸いになれるのですから。


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葛西福音キリスト教会説教2017年2月19日(主日礼拝)

1.テキスト 「使徒の働き311から16節」

2.タイトル 「信仰と何か」

3.中心聖句 (使徒の働き3章16節)

「このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、

あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。

イエスによって与えられる信仰が、

この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです。」

4.本文「信仰とは何か」

 序)「キリスト教の信仰は特殊?」

 本日の中心聖句はキリスト教の信仰の特殊な面を表していると思います。大雑把に分けると一つは『このイエスの御名が、その御名を信じる信仰のゆえに、あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです』との人からの信仰。そして二つ目は『イエスによって与えられる信仰が、この人を皆さんの目の前で完全なからだにしたのです』との神様から与えられる信仰です。これは一つの信仰の両面というよりは、救いの御業に基づくキリストとの関係と切り離せない信仰であり、それは『福音の提供によって引き出され、また、それに応答する信仰』と神学論文集とも言える『新キリスト教辞典』から教えられます。

 それに対して、キリスト教以外での一般的な意味での信仰とは『十分な理由または証拠に基づいて事物などを真実であるとか信頼できると、確信していることを意味する』とされています。なんか難しいですね。短く言うと信仰とは人間の『判断によって決定づけられる知性の状態』とまとめられていましたが、まだ、よくわかりにくいですね。人の尊い宗教心の表れである『信心』と同じ意味ととらえると分かりやすいかもしれませんね。

 本日のテキストから学びたいと願いますのは、私たちの人生に、またこの教会にも、ペテロとヨセフ、そして足の癒された男のような奇跡を望むからです。今日のテキストから彼らの『信仰』に学び、私たちも神の奇跡的な働きを経験させていただいたり、目撃者とさせていただこうではないでしょうか。

 

本論)「信仰とは何か」

Ⅰ.「キリスト教の信仰を誤解する人々」(1112節)

 12節には人々が、ペテロとヨハネ、そして癒された男の間で行われた神の奇跡を見て誤解する様子が描かれています。皆さんがお持ちの新改訳では『なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。』と。ここで『自分の力』は論外としても、『信仰深さ』という言葉に注目しましょう。古い訳の口語訳では『信心』、また主にカトリック教会で用いられている『新共同訳』でも『信心』、英語聖書の大人向け子供向けでも『信心』と訳されています。初めにお話ししましたように、これは人が一般的に信心ともあるいは信仰ともいうものでした。

 しかし、ペテロは明確に人々の思い違いを12節で否定しています。それは正しいキリスト教の信仰ではないからです。

 

Ⅱ.「ペテロの説教から学べるもの」(1215節)

 ①「証とは人々の目をイエス様に向けさせる」

すこし、本題のキリスト教『信仰とは何か』、から離れることをお許しいただいて、ペテロの説教から神様を証する際の大切な点を教えていただきましょう。

まず、13~15節、から学べるものはクリスチャンの「基本的な証のスタイル」があると思います。クリスチャンや教会が聖書のみ言葉を握って祈り、そして信仰の勇気をもって進むとき、神様は不思議なる御業で困難な状況を打ち破られます。また私たちのからだの健康が病気で害されていたとしても、神様は不思議な癒しを行われる時があります。その時、私たちはどの様にこの世の人々に対して神様の栄光を証すれば良いのでしょうか。このペテロの12節の言葉のように私たちも神様の栄光を語ることが求められています。『なぜ、私たちが自分の力とか信仰深さとかによって彼を歩かせたかのように、私たちを見つめるのですか。』と、私たちの家族や世の人々がイエス様に目を向けるように語らなければならないのです。この人々の目をイエス様に向けさせなければ神様の尊い奇跡も無駄になるのではないでしょうか。

 

 ②「証は十字架と復活が内容であり、結論となる。」

ペテロはまず、『アブラハム、イサク、ヤコブの神、すなわち、私たちの父祖たちの神」と人間の歴史を支配され、かつ復活のいのち与える力を持つ『父なる神様』を証しました。次に人々に殺され、そして死からよみがえられたイエス様を人々に語りました。その復活されたイエス様が勝利の主として、現在も力ある御業をなしうるお方として臨在され、そして主イエスの御力がこの奇跡を起こしたのだと話したのでした。人々は奇跡を12節のような『自分の力とか信仰深さ』に結びつけやすいものかもしれません。しかし、大切なことは(第一コリント2章2節)『イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も』語らないことです。すなわち、証の内容と結論が「十字架と復活」と関りがなければ、私たちの証が『世間話』か『自分の話』で終わってしまいます。。

 

Ⅲ.「キリスト教の信仰とは何か」(16節)

では本題に戻りたいと思います。

16節を神学者は『イエスにある神の祝福と御力は、足の不自由な男が恵みの招きに信仰を持ってこたえ、受け入れられたので、人々の目の前で奇跡的な結果を引き起こした』とキリスト教の信仰を言い表しています。奇跡を起こした『信仰』とはこの男の『主の御名への信頼と応答』と、そして神様のペテロを通しての福音の招きと男の信仰が『受け入れられた』こと、その相互の関係に基づいて、イエス様の御力が働いたと教えています。すなわち、キリスト教の信仰とは神様と罪びとの間をキリストの十字架で示された神様の愛の橋がつなぐ、相互の関係と言えるでしょう。

『新キリスト教辞典』の神学者はキリスト教信仰を『一般的信仰』と『特別信仰』とに区別しています。『一般的信仰』とは「聖書は神の言葉である」と信じることですが、この信仰は「第一コリント2章14節」にありますように、生まれながらの人は『神のことば』を信じることはできず、ただ聖霊様の導きによって『神のことば」と信じることができると、神様の導きにより生み出される信仰と教えています。そして『特別信仰』も同じく、福音の提供により、神様から引き出され、かつ応答する罪びとの救済的な、イエス様との関係が生み出す信仰と言えます。この信仰は神様への全き信頼が求めら、それは真理への単なる同意ではなく、自分自身に対する信頼を全く放棄して、キリストへの全面降伏する信仰です。

すなわち、キリスト教の『信仰』とは、神様と罪びとである人が、聖書のみ言葉の証するイエスの十字架の死と復活の福音を通して働かれる、聖霊様のお導きにこたえる『関係』と言えるのではないでしょうか。簡単に言うとキリスト教の信仰とは神様と罪びとの福音的関係と言えるでしょうし、信心とは『ハリーポッター』のような人間の願いや崇高な意志の表れと区別されると言えるでしょう。

 

勧め)「信仰とは何か」

 

今日のお話は皆さんの祈りに対する期待を裏切るものでは決してありません。ただ、例えば『み言葉を握って祈る』というとき、その御言葉は私たちに対して神様から与えられ、また握ることを許されたみ言葉なのだという謙遜な信仰の側面と、祈りの内容が私たちの自我から生まれたのではなく、私たちの内に住まわれるイエス様、また聖霊様の満たしによりきよめられた願いであることが大切だということです。神様は皆さんを愛しておられます。ですから、皆さんが病気のことで心を痛め、また家族の救いのことで心を痛め、また夫婦や親子、職場の人間関係、または皆さんご自身、家族の将来への不安を誰よりも、皆さんご自身よりも神様は心を痛めておられるお方です。現代でも奇跡は起こります。ですから、神様との良い関係、福音的な関係、それから生じる神様の奇跡的な御力に期待しましょう。きっと私たちはその神様の奇跡の目撃者となると信じています。


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葛西福音キリスト教会説教2016年2月12日(主日礼拝)

1.テキスト 「使徒の働き31から10節」

2.タイトル 「教会が与えるもの」

3.中心聖句 (使徒の働き3章6節)

「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」

4.本文「求めて、与えられるもの」

 序)「使徒の働きを読む価値」

 神学者は、『使徒の働き』をこのように言っています。『本書を祈り深く読む者は、不完全な人間および微力な勢力でしかなかった教会を用いて、現実の世界に働きつつある神の御業と、歴史を動かす御力に触れて、大きな希望、あふれる歓喜、尽きない励ましに満たされるであろう』と。皆さんとこの書を学ぶならば、自信がなくても(自信はあるには越したことはないですが)み言葉と信仰と祈りがあるなら、神様が世界を、歴史を、葛西の地域を、皆さんの家族を、みな様ご自身の人生を必ず良い方向に変えてくださると確信できるのではないでしょうか。そのように私は信じています。

 

本論)「教会が与えるもの」

Ⅰ.「世の人が求めるもの」(1から5節)

  ①「人々が神社仏閣に願うもの」

 健康、出世、金運、入試、就職、縁結び、子宝、珍しいところではピンピンコロリなどがありますね。

  ②「聖書は、人の求めることをどういっているか」

聖書は人が神様に求めることを勧めています。

「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ77節)。「あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。」(ヨハネ1414節)。

このように、聖書を通して神様は、私たち人間が神様に対して祈りを通して願い求めるように勧めています。では、この「生まれつき足のなえた人」が求めたものはなんであったのでしょうか。それは3節、「彼は、ペテロとヨハネが宮に入ろうとするのを見て、施しを求めた」と。彼がペテロとヨハネに願い求めたものは、「施し」でした。すなわち、お金でした。金銀がほしかったのでした。彼はそれがほしくて5節、「男は何かもらえると思って、ふたりに目を注いだ」のでした。ペンテコステの奇跡以来、使徒の働き244節など見ると、ペテロたちのもとにはたくさんの人々が、聖書には一日で三千人とありますが、救いを求めてきていたので、お金も必要に応じて分配していたと聖書にあるので、たくさんのお金も集まっていたでしょう。その噂もエルサレムに広く広がっていたと思います。この男もその噂を聞いて、期待していたのではないでしょうか。

しかし、結果はどうであったでしょうか。聖書にはこうあります。

「金銀は私にはない。」(使徒の働き36節)

なんと期待外れであったでしょうか。二人は財布を忘れてきたのでしょうか。それともケチだったのでしょうか。そうではないですね。そもそも、ペテロもヨハネもそうでしょうが、教会のお金は牧師の自由にできるお財布的なお金ではないですね。教会では出納を会計担当者が、また責任役員会(一応、包括宗教団体に所属する教会なので、文部科学省管轄の宗教法人法に基づく教会行政を代表して管理する組織)が教会の会計を月と年度で管理しています。神学者は言います「ペテロは男の願っているものを与えることはできなかったが、彼の必要としているものを与えることはできた」と。

 

Ⅱ.「神が与えたいもの」(6節前半)

神様が教会を通して与えたいと願っているものは何でしょうか。聖書は言います。

「天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」(マタイ711節)。神様は『良いものを下さ』るお方です。

では、どのような願いを神様は聞かれないのでしょうか。聖書は言います。

「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。」(ヤコブ43節)。私たちが悪くなるようなものは願っても神様は与えないのです。

では、神様は教会を通して何をお与えになりたいのでしょうか。聖書は言います。

「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」(マタイ633節)。そして「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。」(ヨハネ157節)。

日本では『清貧の教え』が広く知られていると思います。しかし、聖書は富や地位や権力そのものが罪であるとか、けがれているとかは教えていません。ただし、人がそれらから自由であることを勧めています。なぜなら、罪は人がそれらのことに執着することから始まると聖書は教えているからです。

(人々の誤解の理由を私はこのように思います。旧約聖書では確かに健康と富は神様の祝福の象徴であり、貧しさと病気は神様からの罰的な受け止めがあったと記されています。しかし新約聖書ではその聖書感、神観が行き過ぎて、当時のユダヤ人社会に誤解が生じ、富イコール神の祝福、貧困や病気イコール神様の罰と単純な理解が広がっていたことが記されています。それに対してイエス様が神様の御心はそうではないと反論(特に当時のエルサレムの宗教指導者に対して)し、イエス様の弟子たちも貧しさに甘んじながら宣教活動し、初代教会はその伝統を引き継ぎ、その流れがその後の教会の宣教に受け継がれた面があるかと思います。【一部「新キリスト教辞典」から引用)

 

Ⅲ.「ペテロとヨハネが与えたもの」(6後半から10節)

ペテロが与えたものはなんであったでしょうか。聖書は言います。

「私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」

それは『ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい』でした。この男に施しを与えても、その後彼は死ぬまで『美しの門』に誰かに運ばれ、施しを受けるために置かれる人生を生き続けなければなりませんでした。

しかし、主のみ名によって彼は本当の意味で生きることができる人生に変えられてのです。まことに先に神学者が言ったように「ペテロは男の願っているものを与えることはできなかったが、彼の必要としているものを与えることはできた」のでした。私たちにとって幸せとは「願いがかなうことでしょうか」それても「必要なものが与えられることでしょうか」。皆さんはどう思われますか。

そして彼は8節後半、「神を賛美しつつ、ふたりといっしょに宮に入って行った」のでした。この男のこれからの人生は『神の国とその義とをまず第一に求め』る人生、『あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまる』人生に変えられました。

神学者も「信仰に生きるとは、神の救いの御力に触れて、自分の足で立ち上がり、神の恵みを感謝し、賛美し続けることに他ならない」と言います。

 

勧め)「教会が与えるもの」

私たちも神様に求めて、この男のように必要なものを与えられたいと願います。神様は皆さんの必要なものを必ず与えてくださいます。

そして、私たちの伝道において、この小さな教会で何ができるだろうか?また、どのように、この世の人々が求めるものにこの小さな教会で応じていけばよいだろうか?などと、そのようなことは考えずに、教会に与えられている主のみ名を信じて、今の教会にできることを、今の私たちのできることで伝道しましょう。神様は必ず、人々の必要なものを与えてくださいます。そして私たちは教会でその人々と共に神を賛美し礼拝をささげようではありませんか。


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葛西福音キリスト教会説教2017年2月5日(主日礼拝)

1.テキスト「エゼキエル47112節」

2.タイトル「聖霊のバプテスマの豊かさ」

3.中心聖句(エゼキエル479節)

「この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入る所では、すべてのものが生きる。」

4.本文

序)預言書の読み方

預言書を読むときに皆さんは様々な困難に直面することでしょう。例えば、エゼキエル書に出てくる「数字」、「サイズ」は、現在の私たちの常識的考え方であるギリシャ的思惟方法の「1プラス12」という合理主義的、実証主義的な考え方のみならず、それを越えて語る旧約的、セム的思惟方法を考慮に入れて解釈するべきと神学者は言います。

また、エゼキエル書401節から4835節は一つのまとまりで、世界の終末と神様の審判、審判後の輝かしいエルサレムとイスラエルの民の希望を述べていますが、その解釈には難しさがあります。果たしてどの時代の人々に向けて語られたのか、また読み方は直訳的なのか何かの比喩的意味があり象徴的なのかという問題です。

私など、勉強不足で万歳状態ですが、神様の助けと、学びの努力で皆様と共に読み進めて参りましょう。

 

本論)「聖霊のバプテスマの豊かさ」

 Ⅰ.「聖霊のバプテスマの恵みは神殿から広がる」(16節)

今日のテキストの個所、471から12節は、40章から48章の中心的内容であり、かつエゼキエル書の結論と言っても過言ではないと神学者は言います。

すなわち、推理小説の犯人が判明するページが今日のテキストの個所なのです。この個所を理解すれば、エゼキエル書をすべての読んだつもりになってもいいのでは、と横着な私など考えてしまいます。

 ①「聖霊のバプテスマの源」(12節)

『水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていた』(1節)。この水が何を意味するのでしょうか。昔、「足首の水」(3節)を「免罪の水」と誤訳したため、バプテスマの水を差すと誤って解釈した時代もありましたが、ヨハネ7章のイエス様の預言であり、使徒の働き2章のペンテコステで成就したと受け取るなら、『聖霊のバプテスマ』を象徴しているのではないでしょうか。

そして、1節で水の源が『神殿』から流れ出ていることは、『聖霊のバプテスマ』が神様のみ言葉と信仰、教会の礼拝、祈り、賛美、奉仕を源としていると、私たちに教えていると受け取るべきではないでしょうか。

すなわち、それらのものを離れ、関係がなくなる時、私たちは聖霊様の助けを失うという大きなピンチに陥ることでしょう。ですから、教会から離れないことが一番ですが、そうできないこともあるのが弱さを持つ私たちであり、この世に生きる私たちでしょか。主婦が日曜日に教会に行くことには大きな戦いがあることでしょうし。日曜日も休めない企業戦士の方もおられるでしょう。その時は家で聖書を開き、神様に祈り、神様に賛美をささげることだけでもしていただきたいと願います。そうされる時、あなたは『聖霊のバプテスマ』の恵みの中に保たれるのです。

 

 ②「聖霊のバプテスマの豊かさ」(36節)

千キュピトは約500メートルです。ですから、500メートルごとに水に足首、ひざ、腰がつかり、最後2キロ先では渡れないほどの川になります。自然界の川は、上流では細い流れ、それが細い川が集まり、また支流が流れ込み、川は大きくなります。

しかし、神殿から流れ出た水は自然界の川とは異なります。神殿から離れるほどに水かさが増すのです。まさにイエス様がヨハネ7章でお約束されたことではないでしょうか。

「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」(ヨハネ738節)

ですから、『聖霊のバプテスマ』は教会の主日礼拝、聖会会場や開催期間のみの限定の恵みではなく、私たちの日常生活で、職場、伝道の戦いの中でさらに豊かに溢れんばかりの恵みの大洪水となると聖書は私たちに語っているのではないでしょうか。イエス様は更に約束されました。

「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。」(使徒の働き18節)

 

 Ⅱ.「聖霊のバテスマの恵み」(712節)

  ①「聖霊のバプテスマは霊的に人を生かす」(79節)

『聖霊のバプテスマ』の恵みの第一は『救いの恵み』です。「この川が入る所では、すべてのものが生きる」(9節)。川の岸辺には木が茂り、群がる生物は生きるのです。罪に死んでいた人間はイエス様の十字架の死を自らの罪のためであったと信じるならば、イエス様の復活のいのちに生きるのです。その復活のいのちとは『聖霊のバプテスマ』の働きと言えるでしょう。

 

  ②「聖霊のバプテスマは肉的にも人を生かす」(1012節)

『聖霊のバプテスマ』の恵みは霊的な恵みにとどまらず、魚の住めない死海に「漁師たちはそのほとりに住みつき」(10節)とあるように。死海のような生活に適さない場所も漁師たちの生活資源を得る場所となるのです。皆さんのおられるところは天国とは異なります。教会のような愛があふれる場所ではなく、競争やひがみやそねみ、ねたみが、自己中心があふれる場所かもしれません。しかし、『聖霊のバプテスマ』の恵みはクリスチャンの皆さんを通して、皆さんの生活の場、働きの場をきよめて、愛が感じられる場所に、皆さんや多くの人が生きる希望を感じられるところと変えてくださるのです。

 

  ③「聖霊のバプテスマなくして人は霊的にも肉的にも滅ぶ」(11節)

しかし「その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る」(11節)とは、『聖霊のバプテスマ』の恵みがない時、そこは死の海のままなのです。

 

勧め)「聖霊のバプテスマの豊かさ」

.「聖霊のバプテスマの恵みは神殿から広がる」(16節)

『聖霊のバプテスマ』の恵みを十分に受けるためには、教会生活、それができないならば家でのデボーションを大切にしましよう。

.「聖霊のバテスマの恵み」(712節)

『聖霊のバプテスマ」の恵みは罪からの救いという霊的な恵みにとどまらず、皆さんの生活の場、働きの場をきよめて、愛が感じられる場所に、皆さんや多くの人が生きる希望を感じられるところと変えてくださるのです。